






はじめに
前回はイタリアの作曲家ヴェルディーが、パリを舞台にした歌劇「椿姫」の中で、ストーリー展開上の鍵となる故郷賛歌である「プロヴァンスの海と陸」という曲を作って、既に160年前にも「故郷回帰のススメ」をテーマにしていたという僕勝手な推論を展開した。そしてこの曲に魅かれて南仏プロヴァンスの内陸の街アヴィニョン近郊の美しい4つの村を訪ねてみて、その推論が強ち間違いでないことが判ったわけだが、次には当然のことながらプロヴァンスの海(即ち地中海)を観たくなって、相も変わらぬ忙しい日帰りの旅をプロヴァンス地方最大の港町“マルセイユ”まで強行したのである。時はアヴィニョンに行った丁度3週間後の10月上旬のよく晴れた日であった。アヴィニョンから更に南南東の方角へ70km(TGVで約30分)ほど下れば、そこはもう地中海である。同じ地域に日帰り旅を2回重ねるより現地に1泊でもしてもっと効率的にプロヴァンスの旅が出来たかもしれないが、地方の街から夜遅くパリのアパートに帰宅した後に、その日訪ねた街を思い出しながら独り傾けるワイングラスの味も各々格別なものがあった。例えばプロヴァンスの陸アヴィニョン周辺の村を訪ねた日は夏日(25°以上)で、汗だくになって起伏の多い村を歩いたのが、3週後のプロヴァンスの海岸地方はといえば、少し肌寒いくらいのそれでも乾燥した身体に心地よい風が吹いていた。プロヴァンスの異なる季節感を40日間の間に2度味わうことが出来た。加えて今回マルセイユの地では思わぬ僥倖(2人のマリア様)に出会って、僕にとっては生涯忘れ得ぬ場所の一つとなった。海外を歩いていて、その土地の人と話せる時間ほど嬉しいものはない。そして人間は愉しい時間ほど、あっという間に過ぎ去って大変短く感じるものであることを実感した。驚嘆的な絶景を初めて見る喜びも多々あったが、対象との心の共感を味わう喜びを味わえた旅であった。英語で言えば、“funと言うよりenjoy”と言えるのではないだろうか。
マルセイユとイミグㇾ問題
さて“マルセイユ”と聞いてどのようなイメージが思い浮かぶだろう。地中海に直ぐに漕ぎ出せる大きなヨットハーバー(ヨット&モーターボート7,000艇分のスペースが確保されている)があるパリに次ぐフランス第2の人口を持つ大きな港町なのだが、東にはカンヌ・ニース・モナコ・リヴィエラ・コートダジュール等々のリゾート観光地が連なっているので、風光明媚な海のレジャー基地としてのイメージを持つだろう。しかしながら、これらをマルセイユの表面的な“陽”の部分とすれば、どこの街にも“陰陽”がある如くマルセイユにも歴史を引きずった“陰”の部分がいくつか存在する。一つは、アランドロン主演のギャング映画「ボルサリーノ」の舞台になったような雰囲気が本来あって、旅行者向けのガイドブックにも「スリに用心」と必ず書いてある。僕はギャングはもちろんスリも御免蒙りたいが、同じ港町長崎に生まれ育って身に着いた免疫とでも言おうか、このような多少悪の匂いがする一方でロマンティックな雰囲気を湛えた港町が決して嫌いではない。マルセイユと神戸が姉妹都市であることが頷ける。
いま一つ、これはフランス国全体としても歴史的に引きずっている問題が、『イミグレ(移民とその家族)問題』で、現在はイスラムステート(I.S.)やテロ問題、シリア難民問題等が噴出していることは、アジア東端の日本にも少なからぬ影響を受けている。地中海の中心且つヨーロッパ大陸側に位置するマルセイユを玄関とするフランスが故に、諸外国(北アフリカ、中東、イタリア、スペイン…等の地中海周辺国が主)からのイミグㇾ達の通過点や居住地として大変便利なのである。
先に僕はイミグレ問題と言ってしまったが、フランスはイミグレの大きな貢献に支えられて今日があると言っても過言ではない。古くはショパン、キューリー夫人(ポーランド)、ロスチャイルド(ユダヤ)に始まり、近くは俳優歌手のアズナブール(グルジア/アルメニア系トルコの両親)、サルコジ大統領(ギリシャ/ハンガリー系移民の両親)や、World Cupサッカーのジダン(アルジェリア)…、芸術・政治・スポーツ等々と多くの分野で枚挙にいとまがない。かってはイミグレの目的が経済成長と歩調を合わせた労働力の確保が主目的であったのが、現代は宗教/思想問題、貧困/難民問題…等多岐に及んだ諸問題がフランスで顕著化して、一国の一筋縄の対応では上手く行かないものばかりである。現実にEUのど真ん中に位置して、その人口の約20%(5人に1人)が、イミグレとその2世3世であるという現代フランスなのである。ヨーロッパ大陸から1万キロ近く離れたファーイースト(東端)の島国日本では、とても想像つかない数字である。たまには外から日本を見なければ、世界の趨勢が分からないばかりか、取り残されてしまう危機感を感じた。
今回ご紹介したいのは、そんなマルセイユを舞台にイミグレ家族の才色兼備の1人の女性が頑張っている姿である。多分あのような僥倖に巡り合うことは先ず無いだろうが、忘れられないマルセイユの思い出として大切にしまって一端を皆様にもご紹介したい。彼女の名前は“レア”、才色兼備のドライバー兼ガイド。お父さんがイタリアからの移民、お母さんはマルセイユ生まれで英語教師を務めているので、彼女はイミグレ2代目と言うことになる。家庭環境からしても、仏・伊・英語が出来るのは当然かもしれないが、更にスペイン語と中国語のガイド資格を猛勉強して取得したそうである。普通3言語以上の話者を“マルチリンガル”として称賛されるわけだが、彼女は都合5か国語を流暢に話せるから羨ましい限りである。しかもマルセイユの地理・歴史・文化等に関する僕の質問に対して即座に正確な説明をしてくれた。僕がプロヴァンスに所縁がある「オペラ椿姫」が大好きだと言ったら、いきなり「乾杯の歌」をイタリア語で歌い出した。大変明るい仏蘭西女性である。僕が「bravo !」と知っているイタリア語で返したら、「謝謝」ときた。更に“シェイシェイ”と何度か復唱する僕に対して、聞き捨てならなかったのだろう、“シェイシェイ”ではなくて正しい中国語では“シエシエ”と発音することを、彼女が丁寧に教えてくれた。英語が出来たら中国は簡単なのに、「なぜ中国語を喋らないの」とのことだった。さすが僕の「プロヴァンスの海と陸」のハミングには変な顔つきだったのは、僕の鼻歌がとても歌になっていなかったからだろう。旅の恥としてかき捨てにしたい。
心に堪えた。そのような会話が終日楽しめたのには訳がある。偶然インターネットで予約した「英語ガイド付きマルセイユ市内・カシ港・カナイユ岬ツアー」の乗客が、当日は僕一人だったからである。いきなり助手席を指して「ここに如何?」と彼女に言われて、僕は喜び勇んで彼女の隣に乗り込んだ。才色兼備の彼女と並んで7時間に及ぶドライブ・デートの僥倖に恵まれたというわけである。彼女はプロフェッショナルなガイドとして客の気持ちをよく察してくれた。撮影スポットでは、仏語でカメラのシャッターを押すように近くの女性に気軽に頼んでは、僕と一緒にポーズを取ってくれた。いわゆる安全牌66歳へのサービスだろうが、フランス独り旅にも中々いいことがあるものである。もうマルセイユに再訪することは無いかもしれないと思いつつ、生涯忘れられないプロヴァンスの海への日帰り旅行となった。
写真の説明
①.最初に街の小高い丘(約150m)に建つ“ノートルダム・ドゥ・ラ・ガルド(守護聖人の我らが聖母教会)”に海抜0m旧港のヨットハーバーから一気に登った。僕の脚力ではこの距離と急坂をとても歩いて行けるものではない。写真は教会真ん前のテラスから地中海方面を臨む写真でるが、左手奥手に“イフ島”が見える。仏文豪アレクサンドル・デュマの名作「モンテクリスト伯」では、主人公の船乗りダンテス(後のモンテ・クリスト伯爵)が陰謀による政治犯として14年間閉じ込められたとする流刑島である。(余談:まだ小学生の低学年の頃だろうか、本好きだった僕は黒岩涙香の「岩窟王」としてこのフランスの英雄/復讐物語を読んだのだが、その時の少年が凡そ60年後に原作のフランスの地で、原作小説の舞台を初めて目にした時には、時空を飛び越えた感慨に浸った)。マルセイユ新港からイフ島巡りの船が出ているらしい。イフ等は時間があったら是非行きたかった島である。
②.同じくノートルダム寺院テラスから少し西方面のマルセイユ市街地を望遠で撮った。右奥には地中海クルーズ船や北アフリカとの定期大型客船が停泊する新港、その手前には何かイスラム風を呈する“マジョール大聖堂”、更に手前には7,000艇分のボート/ヨットハーバーの旧港(ツアーのスタート地点)が見える。ノートルダム寺院の黄金色のマリア像は、毎日テラコッタ(焼いた土)色の市民の屋根瓦と紺碧の地中海を見守り続け、市民や船乗りはと言えば、朝な夕なに黄金色のマリア像を見上げては手を合わせて無時と感謝を祈るのであろう。
③.今度は同寺院の内側祭壇である。イエスを抱いたマリア像が美しい。聖書に基づくカトリックの教義には本来マリア信仰はなくて礼拝の対象とはされてないはずであるが、実際にヨーロッパを旅して、イエス像よりもマリア像に出会う頻度がずっと多い。三位一体論の神の子イエスを宿したマリアは当然神的な存在と考えてよい。そして(自覚しないことも含めて)日々罪深い人間は、夕べには「ごめんなさいママ」と告白して肩の荷を少しでも軽くしたくなるのものだろうし、翌朝目覚めたら「ママ、いい子にするから今日も一日守ってね」と祈って生活が始まるのであろう。航海に出る人間も街中に暮らす市民もそうやって、朝な夕な「我がママ」(我儘ではないですよ!)に祈るのである。街の至る所から見える場所に、“ノートルダム寺院”があるマルセイユ市民が羨ましい。船乗りの守護神らしく、正面上方の壁に船のモザイクが施してあり、天井からは船の模型が吊るしてあった。
④.マルセイユから南東方角に車で30分少々走ると“カシ(Cassis)港”がある。途中の車窓左手は葡萄畑(カシスのワイン)、右手にはコバルトブルーの海と断崖が織りなす美しい入江(カランクと何度も説明されてやっと覚えた)が続く格好のドライブコースである。カシ港の遊覧船乗り場近くでも、彼女が近くを散歩している女性に頼んだら、気軽にシャッターを押してくれた。フランス語で明るく冷やかされたようだが、僕はただニヤニヤするだけだった。彼女にも敢えて通訳を頼まなかったが、何と言ったのだろうか。
⑤.カシ港は「プロヴァンスの海と陸」の絶景を一ヶ所に備えたような避暑観光地だった。訪れる観光客も多いが、近辺にはお金持ちの別荘らしき邸宅が沢山あって日常的に犬を散歩させている姿も多かった。地元のワインも美味しそうだし、晩年こんなところで暮らせたらいいなと感じた。僕は帰りのTGVを気に掛けなければならない日帰り旅行(アヴィニヨン観光で懲りた)が本当に恨めしく思われた。
⑥.今度は④の奥に写っている小高い丘に車で来た。つまり「カナイユ岬」サイドからカシ港と地中海方面を見下した写真である。「そこに立って」と言われるまま写真に納まったが、風は強いし後ろは断崖絶壁なので、何度も「smile !」と叫ばれても素直に従えなかった。そして必死にカメラストライプを握り締めているのがわかる。ところで右手の赤色の岩肌に一人のロッククラマーが写っているのが見えるだろうか?ここはフランスで最高峰(海抜415m)のロッククライミング場として有名で、国内外から一流クライマーが訪れるそうである。高所恐怖症且つ泳げない僕には、コースに予めセットされていたカシ湾内の観光遊覧船に乗って、海上からカナイユ岬の絶壁を仰ぐのが精一杯だった。それにつけてもプロヴァンスの海も陸も美しく且つスケールも大きい。
⑦.TGV発車時間まで多少余裕があったので、写真スポットとしてノートルダム寺院を臨める旧港に再度寄ってくれたが、手前の市街地に高層ビル建築の為のクレーンがどうしても視界に入っていい写真が撮れなかった。開発が進む町の宿命だろうが、僕にとってのマルセイユは、あまり手を加えないでこのままであってほしい。もし再訪することが出来たら、今度は開発の手が届かないマルセイユの裏町を歩きたくなった。国際的港町のマルセイユは高齢のエトランゼが独りで歩くには、アランドロンの映画ではないが「危険がいっぱい」かもしれないが、あの“聖母ノートルダム”が何時も見守っていてはくれまいか。
⑧.最後はTGV駅前で、日本流に軽い握手しかできなかった。別れた後一人で駅前テラスから夜空を仰いだら、もう夜の帳が下りかけていた。黄金のマリア様が夕闇に包まれてくっきりと輝いているのが直ぐ目に入ったので、急いで望遠でシャッターを切った。マリア様と、偶然出会った親切な“マルセイユの才女”とが重なっ見えた僕は、彼女に心から感謝をすると同時に、マリアさまには残りの旅の無事を願って、思わず手を合わせていた。久しく手を合わせて祈ることを忘れていた僕であったが、イミグレ2世の彼女が港町マルセイユで明るく頑張っている姿が目に焼き付いて脳裏から離れなかった。パリ行き最終TGVは幸いに一人席だった。目を閉じて今日の出来事と美しいプロヴァンスの景色、そして彼女の姿とを優しく思い出す僕には列車の振動が大変心地よかった。そして深夜帰宅したアパートで独りワインを傾けながら、やはり日帰り旅行も中々いいものだと思った。