第12回 サンドニ教会

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はじめに

これら8枚の写真は僕が2014年10月5日、パリ北部にある「サンドニ教会」に行った時に撮った写真である。今まで観たEU圏内のステンドグラスの中で1,2位を競う美しく豪華なステンドグラスであった。またこの大きな教会(正式には大聖堂)は、フロアと地下墓所に歴代フランス国王が埋葬されていることで有名なので、移民系でない家系の仏蘭西人たちはにはよく知られた由緒ある教会なのである。(但しギロチンにかけられたルイ16世・マリーアントワネット・王妹の3名の遺体はサン・ドニには埋葬されなかった。夫妻は“マドレーヌ墓地”らしい)。それにしても立憲君主制を敷かれるまでの数多の歴代フランス国王・妃の埋葬状態を目の前にした時の複雑な感動が今も忘れられない。入口で係員の許可を得て撮った写真の中から、ここでは8枚を選んで紹介させていただく。
“サンドニ(Saint-Denis)”の名は、2015.11.13.(金曜日)に発生した「ISによるパリ連続テロ事件」の犯行現場の一つとなった国立サッカー競技場がある街、また事件後首謀者たちの逃亡先として5,000発の銃弾が撃ち込まれたアパートがあった街、そしてフランス国内でも突出して失業率が高くて治安も最低ランクの街であること、モスリム住人の比率が高い街…等々から、どちらかというと悪名高き(notorious)評判の方で2015年にその名が世界中に知られることとなった。
しかしながら僕は、2014年秋のパリ滞在中に“サン・ドニ大聖堂”があるこの街には、どうしても一度は行きたかったのである。立憲君主制移行の契機となった1789年の7月市民革命が起きるまで、世界史上でも稀に見る権力と栄華を誇ったフランス国王たちが静かに眠っている場所がこの聖堂であり、その地名(St-Denis:聖ドニ)もフランスの守護聖人の名前に由来するなどして、海外にも有名な(famous)街であることを、日本を立つ前の予備知識として頭にインプットしていた。勿論僕が訪ねた翌年の2015年、1月と11月にパリで相次ぎ2件のテロ襲撃事件が起きるとは、想像すらつかなかった。サンドニ・バジリカ駅に降りた時の少し不気味な街の雰囲気や、逆に君主が眠る好対照な聖堂の中の様子を感慨深く今思い起こしている。
それにしても、どんな理屈を並べても絶対に許すことが出来ないテロ事件が、平和に暮らすパリ市民を襲ったのである。2015.11.13直後から各国のリーダーや個々人の色々な動きが連日報道されているが、9.11ニューヨーク同時多発テロ事件以降に世界中で“報復の連鎖”が齎された事実からしても、テロが再発多角化するのではないかという懸念の方が大きい。“どんな戦争でもいい戦争はない”、全くそのとおりである。今回のテロ事件を一つの契機に「吾輩は考える」のコーナーで、今日本の政権が考えている方向とは全く違う『真の積極的平和主義』を、一人の日本人として静かに考えたい。欧米諸国と違って唯一の被爆国である日本にしかできない提案や行動があるはずであるが、ここでは何時もの「仏蘭西40日放浪記」の第12回目として「サン・ドニ大聖堂」のご紹介をする。

先ず地下鉄13号線でパリ中心街から30分程度真北に向かった“サンドニ・バジリカ駅”の改札出口付近で、わが目を疑う光景に出くわした。僕の目の前の“有色人系の若者グループ”5人が大胆にも、しかし実に華麗に改札のバーをヒラリと飛び越して改札を出たからである。そもそも切符を持っていない様子である。パリ地下鉄には乗車券の精算という概念がないので、僕は目的地までの切符を持っていなかったら、その場で厳しい罰則を受けるものと考えていた。僕は自販機で回数券を購入しては、乗車間違いにも備えて外出時には4枚の切符と少額の小銭を持って何時も地下鉄を使っていた。(細かいところはバスを使うのが便利だが、一時的滞在の外国人の僕にはバスを使いこなせるまでには至らなかった)。尤も不正乗車に対するパリ当局のリスク管理がなされていないわけではない。例えば深夜帰宅した時に、出口改札前に銃を持った強面の警官が数人いて、降車駅までの切符の提示を求められた経験が度々あった。
世界的観光都市パリには諸案内所は、確かに多くの場所に整備されていると思うが、(これは僕の想像であるが)地下鉄駅に清算所を見掛けない理由は、金銭目当ての暴力野郎に襲われる機会を地下鉄駅自らが避けているのではなかろうか。つまり小さな被害(改札ヒラリの無賃乗車)には少々目をつぶるが、大きな被害(強盗やテロ等)は避ける努力を徹底しているのが、パリ地下鉄のリスク管理方針のようだ。このことは、「パリは無賃乗車、スリ、酔っ払い…小さなリスクが沢山ある。警察が行う警備にも限界があるので、乗客の皆さん自らがリスク管理を心掛けて頂きたい。我々当局は大きな災害を未然に防ぐように警備・治安に努めるから宜しく。」と宣言しているように感じた。そういえば、パリの地下鉄に小学生の年齢の子たちが一人で乗って居る姿を先ず見掛けたことがない。日本では、例えば“有名小学校遠距離通学”を日常的によく見かけるが、パリであれをやったらあまりに危険すぎる。スリも日常茶飯事(僕もやられた)、届け出る術も分からない。ただ先の“改札ヒラリの無賃乗車”はパリ中心街では余り見掛けなかったが、サン・ドニのように少し郊外の駅では日常的多発事象なのかもしれない。いずれにしても、“セルフ・リスク・コントロール(自己危機管理)”の感覚が、パリ市民には当然のことととして染み込んでいると思われる。サンドニ駅で僕も“ヒラリ改札”を見て見ぬふりして、先ずは我が身の安全を第一に心掛けて身を引き締め直して地上出口から教会に歩き出した。
緊張していたのでサンドニの街を散歩するという気分には程遠かった。聖堂への標識も見つけ切れずに20分ほどウロウロした末に教会の塔が見えた時は正直ホッとした。途中に巨大な“カルフール・サンドニ店”があったが、この店は18歳未満が入場するには大人の同伴が必要な店だと以前聞いたことがある。日本の大型スーパー店ではとても考えられないリスク管理の徹底ぶりである。さて8枚の写真の説明の前に、サンドニ大聖堂の故事来歴について簡単に触れておきたい。

サン・ドニとは
そもそもサン・ドニ(Saint-Denis:聖ドニ)とはパリのカトリック教会の司教であり、ある伝説からフランスの守護聖人となった人物である。つまり7世紀前半彼はパリ北部の“モンマルトルの丘”で斬首されても生き続け、自分の首を手に持ってパリ郊外のこの地まで歩いてから絶命したそうだ。(この間を地図で測ったら約5kmあった)。普通の人間では想像つかない奇跡を起こすから“列聖”されるのである。この伝説に基づき、ドニ(正式にはディオニュシウスといい、英語・フランス語の表記では“Denis”となる)は“フランスの守護聖人”として祀られた。このことから当然サン・ドニ教会が、歴代のフランス国王が祀られる場所としても相応しい教会だといえよう。(戴冠式はパリ東方シャンパーニュ地方のランス大聖堂で行われる。なおイギリスは戴冠式も埋葬もウェストミンスター寺院一か所で行われるのと異なる)。また“Saint-Denis”の名は、フランス軍の戦闘を鼓舞する際の“鬨の声”に使われるだけでなく、彼の墓に奉献された旗が、その後フランス軍旗や国旗として採用された。フランス人が如何に聖ドニを守護聖人として崇敬していたかがよくわかる。(なおパリの守護聖人としては、花の都らしく女性“ジュヌヴィエーヴ”だということになっているようだ。5世紀に東からゴート族が攻めてきた時に、市民に逃げないでパリに留まるように説得し、実際にゴート族は南西部のオルレアンを攻撃したのである。なおパリの街を崩壊から救った守護聖人“ジュヌヴィエーヴ”の像は、ポンピドーセンター近くのトゥルネル橋に、攻めてきたゴート族の出所である東の方向を向いて立っている。

写真の説明
①.②.西側からみた教会全景
歴史上何度か改修されたのだろうが、外壁には年数を感じさせる薄汚れた石壁と黒っぽい色ガラスがはめ込まれた窓が多数見える。外側はこのようにくすんでいて何ということないが、そのステンドグラスを聖堂内側から見たのが次の②.の写真である。ステンドグラスは、僅かな外光を得ては、美しく内部を照らしだすものだ。
③.④.聖堂最奥のステンドグラス
最奥にはイエスを抱いたマリア像が薄暗い中に置かれている。美しいステンドグラスをバックにしたマリア像は、仏教の観音様を思い起こさせる気高さが漂っていた(③)。しばらくマリや像に見とれてから、聖堂最奥で天井を見上げてカメラを天井に向けてシャッターを切った。まるで万華鏡を覗いているような素晴らしいステンドグラスであった(④)。
⑤.⑥.聖堂内景
右手奥が正面入り口(⑤)。後陣手前にある祭壇の裏から入口方向を臨む写真(⑥)。
⑦.⑧.王の墓
国王・妃は墓の中央最上部に並んで座っている。そして生前そうであったように、侍女、兵士、学者、神父その他多くの人間に取り囲まれて暮らしている様子が見事に再現されている。大理石像の一人一人が素晴らしい芸術作品なので、まるでルーブル美術館で鑑賞しているような感動を覚えた。僕は墓の周囲を何度も廻って各彫刻の前で止まっては、往古の人間たちを偲んだ。芸術の国フランス国王らしい祀られ方である。因みにこの墓は、「ルイ12世国王・メアリーチューダ妃の墓」で、ルイ12世は(先述した)ロワール川沿いのブロワ城に住んだ(⑦)。
地下墓地(カタコンブ)も美しい祀られ方で多くの棺が納められていたが、地下奥には周囲の土壁を掘り抜いた洞穴があって、初期国王たちの墳墓が厳かに祀られていた(⑧)。