第01回 野球と民主主義

1_1 はじめに
私が球技の中でも野球を格別に好む理由を考えた。先ず考えられることは、スポーツを始める頃の時代背景がある。僕が生まれた昭和20年代といえば、終戦後間もなく日本の統治に乗り出したマッカーサー元帥率いる連合国GHQ総司令部の影響が大きく、アメリカの国民的スポーツである「野球」が「ある意図をもって本格的に日本に持ち込まれた」のである。(正確に言えば彼らが持ち込んだのが「ベースボール」、日本で発展したのが「野球」というのであろうが)。
全くの仮想であるが、もしイギリスが敗戦後の日本統治を任されていたら、戦後の日本では野球よりサッカーが幅を利かせたかもしれない。でもこれは僕の私感且つ両親から聞知した戦争体験も踏まえて言えば、闘争的なサッカーよりも、運勢にも左右される人生ゲーム的側面を持つ野球の方が、当時の日本には似合っていたようにどうしても思えるのである。スポーツの振興も社会的背景に大きく影響されるのであろう。ただ野球自体は俳人正岡子規も一高時代に熱中したように、明治初期の文明開化の一つとして外国からの移入スポーツとして既に国民の一部に浸透していたのだが、日本古来の伝統に基づくスポーツの牙城(例えば大相撲の栃錦・若乃花が築いた「栃若時代」)を崩すほどの人気ではなかった。
ここで括目したいことは、欧米起源の野球もサッカーも団体で戦うチームプレイのスポーツであるのに対して、柔道・剣道・相撲をはじめとする、ほとんどの日本古来のスポーツが個人競技であることである。そして、そこにはアメリカが戦後日本の復興ツールの一つに野球を取り入れた「ある意図」があって、それは正に僕が野球をこよなく愛する理由にも合致するものである。つまりその意図とは、アメリカが戦後統治の一環として野球を通して民主主義の再浸透に本格的に乗り出そうとしたのである。アメリカを中心とする戦勝国側の認識は、戦前の日本には十分な民主主義が存在しなかった中で大東亜圏構築の目的で今回の戦争を起こした…というものが強くあったと思われる。それはあくまでも戦勝国側の歴史認識であろうが、敗戦するということはそんなものである。つまり戦勝国の歴史認識があれば、侵略被害者側の歴史認識がある、これらは敗戦国日本の歴史認識とも大いに違って当然である。ここでは、戦前日本の民主主義が十分でなかったとアメリカが考えたということで前に進もう。(それにつけても、民主主義といえば、その真意を取り違えるというか、乱用というか、理解違いによる社会的混乱を、今日なお招いていることは否めないが、その議論も長くなるので別稿に譲る)。
要は、野球というスポーツが本来備えている民主主義的要素に僕は共感する。たとえば戦後間もない時代に野球を通して民主主義を学ばせようとする女性教師(故夏目雅子)を描いた映画、「瀬戸内少年野球団」を僕はよく思い起こす。このような背景を追い風にして「野球」が日本中で流行り、当然僕も野球少年として真っ暗になった小学校の校庭で(人数が足りない時は三角ベースなどの工夫を凝らしながら)ソフトボールに夢中になったことを懐かしく思い出している。一対一では勝てないが、みんなと一緒になって自分の良いところを出し尽くしてチームが勝利した時の喜びを忘れられない。当時野球で泥んこになった友達の顔を懐かしく思い出す。
人生そのものの野球
つまり団体競技である野球というスポーツそのものが、まるで1年掛けて家族が協力し合ってコメの収穫をすることにも似ていて、農耕民族の日本人には何かアッピールする魅力を備えているように思われる。つまり野球は攻撃・守備を9回繰り返しながら、1チーム9人が別々の役割を担った分担制ゲームで、攻撃時には3個のアウトを使いながら安打や犠打を重ねて何とか本塁ベースまで戻ってきた走者の数を獲得点数として競う。一方守備時には何とか相手に得点させまいとして、ピッチャーとキャッチャーのバッテリーをはじめとする守備陣9人が相手にホームベースを踏ませまいとして早く3アウトを取ろうとするわけだが、詰まる所色々な特徴ある運動能力を持った9人の個々人の運動能力を競い合う団体スポーツなのである。応援も力になる。1人のスーパースターがいれば勝てるものでもない。また人間だからそこには思わぬエラーがあって、人知では予測しえない運に救われたり、逆に見捨てられたりもするので、グラウンドの贔屓チームの応援をしている観客にとっても、恰も3時間程度に圧縮された人生そのものを味わうような面白さがあって堪らない。また野球には、身体的能力を競う以外にI.D.(important data)を駆使した頭脳戦としての要素もあって、試合中の作戦や戦術の巧拙が勝負に大きく影響する。キャッチャーがピッチャーへ、監督が選手達へ出すサインを、こちらはTV観ながら寝そべって予測したりするのも実に楽しい。月曜朝の職場では、福助の頭(後で結う/言う)を地で行く素人評論家が沢山いるものだ。アメリカではプロ野球と人気を二分するアメリカンフットボールにおいては、ゲームの司令塔であるクォーターバックになりきって月曜の朝に前日の試合を「あそこの作戦はこうすべきだったんだ、あれでは駄目だ…」と言う輩(Monday Morning Quarterback:月曜の朝のクォーターバック)が多いらしい。僕も自認するところであるが、自分は何も動かないであれこれ言う『懐手(ふところで)』の類である。他のスポーツと比べても、特に野球にはフィジカル面のみならず、メンタル面においても知的好奇心をくすぐるものが沢山詰まっており、野球周辺全部(プレーヤーも観客その他も)が数多の民主主義的自由と平和に溢れている。だから僕は野球が好きなのだ。サッカーとの比較において次回に述べることにする。

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