はじめに
そもそも「好きなもの…」に順位なんてつけられない。でもあれこれ順位付けに頭を悩ますのも結構楽しいのが趣味の世界である。僕にとって「好きなもの…」の横綱は、このコーナー冒頭で引用した寺田寅彦も詠んでいる『懐手してクラシック』と言うことになる。(懐手:人に任せて自分は何もしないこと。袖手シュウシュ)。クラシックを聴くには必要な機器やそれなりの準備等が必要なので、ここでは場所・時間を選ばず人手を借りないで出来る“懐手”を東の横綱、“クラシック音楽”を西の横綱と一応しておこう。
懐手するのが最高の趣味?馬鹿なことを言うようだが、人間生きて行くうえで最高の状態と言えば、王様の如く毎日懐手して暮らすことだと言えまいか。尤も世知辛い現世で何時も懐手をしていたら、自分が望む人生はおろか、食べて行くのも大変なことになる。逆説的に言えば、それ故にほんの短い時間でもいいから懐手した時間を過ごすことを人は欲するのである。退職後の僕はよく懐手をする。そして懐手しているその時にクラシック音楽でも鳴っていたら、もう至福の時間請け合いである。
さてクラシック音楽について書く時に、どうしても最初に言っておきたいことがある。それは僕にとっての話であるが、最近のクラシック音楽評ほどつまらないものはないということである。元々クラシック音楽とは黙って聞いて自分なりの感動や安らぎ(精神的満足)が得られたらそれで充分満足である。僕の性格が悪いのだろうか、寧ろ他人様にはこの愉悦の時間があることを漏らさないで、世界中で自分一人の世界に浸っていたい。寺田寅彦も、溺れてしまいそうなこの境地を「好きなもの…」の句に詠むに留めたのであろう。彼はクラシック音楽のことを書いた文章を、あまり人目に晒していないようである。所謂『壺中の天』の境地なのかもしれない。
つまりクラシック音楽を書物で論じるのは本来不要なことで、それは黙って独りで興に入っていればいいことであって、百人百様皆が違っていていいのである。大学の入学式直後に勧誘され且つ僕も同意して入った「クラシック同好会」の10名程度の部室に行った時である。いきなり4年生の会長が「クラシック音楽に何を求めるか?」「君はベートーヴェンを知らな過ぎる…」、「フルトヴェングラーの演奏はカラヤンより精神的深みがあるのだ…云々」という自己主張過多の人間ばかりがそこに集まっていてびっくりした。このままでは学生生活も台無しだと直感して3日目には退会を願い出た。今思えば、クラシック音楽の場を借りて人生や恋愛を論じ合う学生の集まりだったのかもしれない。作品によるが、僕は小さい時からバッハが好きだし、フルトヴェングラーよりカラヤンの指揮の方が美的且つ芸術的に聞こえてきた。やはり自分だけが正しい聴き方をしているという主張をし合う輪の中にはどうしても入っていくことが出来なかったし、自分の考えを積極的に発言をすることもなかった。それでよかったのだろう、今日相も変わらず「懐手してクラシック音楽を聴いている時」が一番幸せだから。
でもよく考えたら、クラシック音楽の演奏とは、楽譜に元々内在する作曲家の主張を、指揮者や演奏家がそれを掘り起こして高い表現技術でもって現在の私たちに聴かせてくれる行為なのかもしれない。単純に言えば、にショパンを聴いて精神を安らぎ、ベートーヴェンを聴いてまた元気に頑張ろうということになった数多の先人たちがいたことだろう。きっと作曲されてから何百年もの風雪に晒されても現代否将来に聴きつがれていくクラシック音楽は、ポピュラー音楽よりも奥が深い…あっ!これこそ僕の偏見的な意見に過ぎない失言でした。
読む音楽と聴く音楽の往復運動
かくいう僕も若い頃にはクラシック音楽を論じた本を読み漁った。それは作品や演奏家に纏わる客観的な情報を知ったうえで音楽を聴くことで、僕個人の鑑賞に役立ったことが最大の理由である。その結果(ここ10年ほどは増えることは無いが)今の我が家の蔵書で一番多いのは、詰まるところクラシック音楽に関する書籍である。自分の求めに応えてくれたそれなりの本が書棚に並んでいる。西洋音楽が無いと生きていけないと言っても言い過ぎではない今日の僕を育ててくれた本ばかりである。
その山ほどいる音楽評論家諸氏の中でも、2012年に98歳で亡くなった吉田秀和氏が音楽と言う領域を超えて一人の思想家として、僕は大きな影響を受けた。彼の著書はベッドの枕越しに一番取り出しやすい本棚の端に並んでいる。彼は文化勲章を受章し、西洋音楽評論に留まらない文芸、随筆、翻訳等の分野における泰斗である。「吉田秀和全集.白水社全24巻」に詳しいが、それは音楽という一つの芸術を通して氏の哲学が展開されており、ある意味で思想書と言ってもいい。(団伊玖磨の「パイプのけむり」といい作曲家に名文家が多いのはどうしてだろう)。鉛筆で✓点が入ったところをこれから何度も読み返していくことだろう。音楽を聴く行為と書物を読む行為との往復運動が「死ぬまで続くクラシック音楽を聴く喜び」と言えるかもしれない。とまれ今日の僕は吉田秀和氏に負うところが大きい。心から敬意と感謝の念を表したい。
ここで少し脱線をお許しいただきたい。そのような吉田秀和氏の生前(計算したら当時吉田は69歳頃)の、とある発言である。執筆は活字として残るが、発言も収録されたら後世残る。以下は僕自身が当夜の演奏会を聴いた1人の聴衆として書かせて頂く。1983年「伝説のピアニストと言われたV.ホロヴィッツ(80歳ソ連生まれ米国籍)」が初来日して東京NHKホールで2回だけ演奏会を開催した。演奏会の中間休憩時(従って前半終了時点)に女性アナウンサーのインタビューに吉田氏は「今晩のホロヴィッツの演奏はヒビが入った骨董品だ」と評したのである。日本を代表する西洋音楽評論家の発言である。以降何度かそのコメントがオンエアされた。重ねて言うが音楽評論に正解は無い。自分が感じた印象以上も以下もないのである。それでもクラシック音楽の演奏を骨董品に例えるのは、やはり間違いだと言えまいか。
そもそも常に動いて留まらない時間の経過に「リズム・メロディー・ハーモニー」を付けて形に残すのが作曲家の作品として残るのであって、古い時代に作曲されたものをクラシック作品と言う。唯一無二の傷つかない骨董品である。しかし演奏者(指揮者、楽団、ソリスト、歌手など)は二度と取り戻せない時間を演じた芸術家である。同じ演奏は出来ない。せいぜいCD/Videoに封印することは出来るが、それとて演奏会場は再現できない。そしてリスナーそれぞれに異なる印象を与える。僕にとってあの夜のホロヴィッツの演奏は、今もこれからも心に鳴り響く宝物である。ミスタッチも、音飛びも、テンポの揺れもあった。しかし80歳のホロヴィッツの演奏は、CDで聞く往年のホロヴィッツにはない、ある意味でより音楽的な演奏であった。演奏を骨董品に例えるのは間違いであるが、氏の頭の中にはホロヴィッツがかって演奏した完璧な演奏があって、それがあたかも秀逸な骨董品の如く鳴り響いていたのであろう。思えば僕も、クラシック音楽の作品ごとに自分が最高だと“見極め”ならぬ“聴き極め”の演奏があるものだ。それを100点満点とすれば…今日の演奏は云々と思うものである。例えば『オペラならヴェルディーのイル・トロヴァトーレで、カラヤン指揮のウィーン国立、ドミンゴ&コッソットが共演する…』などと僕だけの御用達オペラ公演が出来上がっていた。それでも御用達に拘ってはいけない。クラシックファンこそ演奏の1回性を重んじながら他の演奏に寛容にならなければならないと常日頃感じている。実際に御用達商品を凌駕する演奏に巡り合った時の喜びは格別である。1ヶ月ほど前に新しい「イル・トロヴァトーレ」をテレビで観た。この話は第2回以降に譲ることにしよう。
時間の芸術に『今を生きる』
さて既述した如くクラシック音楽作曲家の作品(即ち傷つかない楽譜)は別として、時間の経過を表現する音楽の演奏とは、美術(例えば絵画)が時間を止めて作者の感情を1枚のカンバスに封じ込めて表現するのと180°反対の芸術表現なのである。絵画の場合は、夜中目を覚まして昼間出逢った作品にもう一度出合いたくなったら同じものに出逢うことが可能である。好きな美術作品を寝室に飾る趣味はよく理解できるし、何度もルーブルに通いたくなる気持ちがよく分かる。お金があったらオークションで競り落として自分だけのものとして観ていたい。
一方の音楽には同じ演奏が無い。ストップウォッチで音楽は止められない。止めたら音楽自体が無くなる。従って骨董品もないことになるが、目に見えないが自分の頭の中には骨董品として位置づけられるものはやはり存在して、僕にとってはあの夜のホロヴィッツが奏でた音楽なのである。いみじくも先に引用した名指揮者フルトヴェングラーがB.P.O.の団員(演奏者)に言っている、「音楽は生きている。あなたがたはこの曲を何百回と演奏してきていることを誰にも気づかせてはならない」と。指揮者/演奏者は、何時もこの演奏が自分の最後の演奏だと思って、その時自分が持っているものを出し尽くして音楽を創り上げるのである。そう言えば先のホロヴィッツはリサイタル自体も数少ないピアニストで、しかもドタキャンが多いピアニストとして正直悪名が高かった。それ故に「幻のピアニスト」として大衆は生の演奏を聴く機会がほとんどなかったようである。またリサイタルが近ずくと自宅で布団を被って外に出ることを極端に嫌ってキャンセルが重なったこと、病的なまでに演奏環境の完璧さを求めたこと…等々(Wikipediaはもとよりホロヴィッツの事を書いた本がたくさんあって、下手な小説を読むよりずっと面白い)全身全霊で演奏の一回性に懸けたピアニストの病的でさえある神経質な一面がよくうかがえる。そういえばG.グールドやV.ミケランジェリなども、時間の芸術である音楽の演奏の1回性に拘るピアニストが昔はとても多かった。
禅宗の道元禅師の『今を生きる』に通じるものを、僕はクラシック音楽の演奏家に感じる時がある。ただこうなったら、「懐手してクラシック」を聴いている場合でない。正座して音楽を聴かなければ演奏家に失礼である。楽譜は1つの固定したモノ、されど演奏は1回性に懸けて常に動いている生き物なのである。だからその生き物と巡り合うためにお金をかけて彼の地までも聴きに行くのである。
僕はやはり1回の演奏に掛けるクラシック音楽芸術が好きである。あの夜のホロヴィッツの奏でた音が今も耳から離れないで、(吉田さんではないけれど)僕の一級骨董品として今日も輝いている。但し一つのヒビも入っていない。