はじめに
若い頃から、「人生には四季がある」という言葉に共感している。
それは四季折々の特徴を色になぞらえて、「青春・朱夏・白秋・玄冬」と呼んでいるが、外国よりも四季の区別がはっきりしている日本に暮らしてその実感を強くする。
確かに、もし年齢を重ねながら歩む人生を色で表現するとすれば、やはり、「青・朱・白・玄」の順番に歩んできたように思える。つまり四季折々の良さを知っている日本人だからこそ人生の四季折々に色名を冠して、その色の持つイメージに心を通い合わせながら人生を歩む術を古来から身に着けてきたのであろう。
ただここで、冬が「玄」の色の冠を被っていることに関しては、初耳の方も含めて少し注釈を要するだろう。私自身も今年(2015年)67歳を迎えるので、日本人の平均年齢からして愈々「玄冬」なるものへの船出を準備しなければならないからである。
そこで手持ちの漢語林で先ず‘玄’の字を調べたら、最初に「赤味を帯びた黒い色」とあった。やはり単なる黒ではなかったのである。この赤味を帯びたという修飾辞がミソで、各人各様の赤味の帯び方は違うだろう。辞書の説明はさらに「天の色・奥深い・静か・非常にすぐれていること・妙なる…」と続く。人生最終章4番目の季節である冬の特徴を表すのにはもちろん、冬の季節の目指す生き様にも実にぴったり当てはまる「玄」の色ではないだろうか。
とろで私の場合その人生の季節の替り目が何時、何だったろうかと振り返ってみたら、不思議なことに気付いた。きちんと22年周期で何か区切りとなる運命的出来事(イベント)に遭遇しているのである。それは正に自分の意志でその出来事を選択したわけではなく、見えない力に押された何かが向こうからやって来て、僕の人生の四季の「替り目」を教えてくれた。
①.「青春」
具体的に語ろう。私は昭和23年(1948年)四人兄姉の末っ子として長崎市内で生まれた。52歳の父と41歳の母によってこの世に送り出してもらったので、世にいう「恥かきっ子」といわれるものであろうが、戦後の日本にやっと復旧の兆しが見えはじめた頃に、大きな期待を込められて生まれてきた「団塊世代」でもある。
私が小学校に入学して間もなく母はもう50歳である。授業参観や運動会で、若くてはつらつとした友達のお母さん達を観るにつけ、正直羨ましく思ったものである。母はといえば、そろそろ老いを感じる年齢に差し掛かっていたことは、私の50台を振り返れば容易に想像がつくことである。従って子育てに関しては、いわば白秋の時期の母が兄姉3人を育てた経験も生かして、最後の息子としての私を春の青空のように大らか且つおっとりと育ててくれたように後年思う。所謂当時からあった、「団塊世代の‘教育ママ」には程遠かったと思う。“廣”の命名にも、両親の願いを感じる。
一方両親が高齢であったことから、友人達と比べれば比較的早い年齢で人生の通過儀礼といえる出来事に遭遇した。それは小学6年生(12歳)の時に父(64歳)を亡くしたことである。一家の大黒柱を亡くすという私にとってはまさに“春雷”の一撃であった。父は僕が生まれる3年前長崎に原爆が投下された日(昭和20年8月9日)の夜から1週間、自衛消防団として爆心地で被爆者の救出や搬送作業に不休で携わったと小さい時から聞かされた。私の中ではかなり古い記憶として鮮烈な印象として心に残り続けている話である。
被爆していた父の遺伝子的影響もあったのだろうか、高校時代の私は体育の授業をほとんど休まなければならないという、身体活動的には大きな制約下で高校生活を過ごした。しかし精神活動的には、読書が小さい時から大好きで、外からは見えない人間の心の中のエックスを取り上げた小説や哲学書を好んで読んだ。幼い時期から「人生とは、死とは、愛とは…」などをテーマにして悩む癖があったのは、少年時代に父を亡くしたことの影響を受けていたのは確かである。大学の受験勉強をしなければならない時期にも益々読書にのめり込んでいって、楽々入学できると勝手に決め込んでいた一校だけの大学入試では自惚れの鼻をへし折られ、一浪の憂き目にあった。当然ストレート合格を願っていたた母や兄達には大変申し訳なくて、人生初めての深刻な落ち込みを経験した。ただ敗者の気持ちを痛いほど我が身で味わった浪人生活が、後々の人生行路において “敗者や弱者”にどうしても味方してしまう行動様式の底辺にあるのではないだろうか。つまり基本的には性善説に基づいて、「強きををくじいて弱きを助ける」ことに自分なりの格好良さを求める自分が常に居た。そしてたとえその結果が敗者の繰り返しとなろうとも自分に納得がいった。
このような青春時代を謳歌できたのも、父の早世にも拘らず、家族(母、兄姉)から物心両面にわたる絶好の環境を与えてもらったからだと感謝している。大学時代には学費の足しにするために民間奨学金も取得できて大変有難かった。そして以前にも増して多読、多聴(クラシック音楽が多かった)三昧した。それから私の人生にとりわけ重要な影響を与えた事であるが、大学入学後に飲酒が出来るようになってから高校時代の不健康が嘘のように改善されて人生が急に明るくなったのである。飲酒は身体にいいとの自己弁護を繰り返しながら、酒との永くて深い付き合いが大学生の時代から始まった。尤もそれなりの成績は確保して就職の準備は忘れなかった。特に後半2年間は尊敬するゼミの先生と優秀な友人に恵まれたことで、学問をする喜びを感じることができたが、学究生活を選ぶにはあまりに人生の快楽を知り過ぎていたことと、経済的な負担をこれ以上家族にかけられなかったので、早く自活したいという思いでサラリーマンに相成って「朱夏」に突入していった。
②.「朱夏」
春から夏になる替り目として、大学卒業、就職、結婚などが挙げられるが、私にはそれらが一斉に来た。つまり私が東京の私学を卒業するまで、苦しい家計の中で仕送りをしてくれた長崎の長兄(私と16歳違うので兄と言うより父親に近い存在)に対する恩義、それに大学卒業直後に見合い結婚した妻に対する責任を背負って社会人のスタートを切ったのである。直ぐ娘2人を授かり、若くして家族3人扶養の稼ぎ手となった。これが僕にとっての暑い「朱夏」に飛び込まざるを得ない出来事である。それはギラギラ照り返る夏の太陽にも似た猛烈サラリーマンとして、汗だくになって突進し続けた22年間であった。読書も先ず仕事に役立つかどうかの価値判断が優先されて、小説よりもビジネス書が家の本棚で幅を利かせた。ただ少しでも多い給料や高い職位を目指すサラリーマン生活を苦しいとか疲れたとは一度も感じなかった。自分を「朱夏」の舞台の主役として客観視する余裕もなかった。あのまま定年まで突っ走っていたら禍根を残しただろうと感じる大きな出来事が44歳の時に起きた。
③.「白秋」
入社22年後の1992年、私が44歳になったある日、会社の本社があったロンドンに約3年間の単身赴任を突然命じられた。ミッションは、本社のグロバリゼーション施策を支援する目的で、日本の現状報告を行うものであった。それまでの売上や利益の目標を追いかけるような所謂「夏向き仕事」ではなかったので、異国での仕事にしては比較的ストレスが少なかった。それでも世界企業の戦略・戦術の理解を深めたり、海外の親会社の立場から日本の企業を客観的に分析したりとか、サラリーマンには機会が少ない貴重な体験をすることが出来た。そこでは日本企業におけるような事情での残業や休日出勤がまずないので、仕事を離れた時の生き方次第で、人生の充実度が変わると言っても過言でない。職場の同僚たちには、生甲斐を家庭に求め、趣味に求め、会社勤務はそのために必要な資金を稼ぐ場所だという割り切った考えを持つ人が多かった。
このように、のちに人生の秋の始まりの「替り目」と感じた海外駐在であった。会社以外の時間が豊富にあった一人暮らしのロンドンでは、毎日がカルチャーショックの連続であったが、単身の気軽さもあって手元のお金は見聞を広めるための旅に殆どすべてを投資してヨーロッパの国々を巡り歩いた。学生時代には書物の世界でしか知らなかったヨーロッパの歴史の奥深さに直接触れた感動の連続であった。同じ知識でも活字と見聞で得た知識の間には、実際に知恵として稼働させる段階で格段の差があった。読むと観るでは大違いである。そして旅先での思索は、それまでの44年間とは違う価値観や生甲斐の発見に繋がる源泉となった。3年のロンドン駐在が、猛烈サラリーマンの「朱夏」から自分の時間を大切にする「白秋」が始まる「替り目」を与えてくれたのである。その切っ掛けを与えてくれた日英両国の会社に心から感謝している。イギリスが大好きになったのも言わずもがなである。
帰国した僕は、「異文化の受け入れ」という面で、以前の保守的なスタンスを180度転換していた。そして第3の季節「白秋」の基本スタンスはと問われれば、「異文化の受け入れ」である。そのスタンスは当然「自分と違う価値観を持っている多くの人間が世界中にいることを異国の地で強く感じることができた。海外駐在した国が、かってコモンウェルス(Commonwealth)としてオーストラリア連邦はじめ世界中の多くの国々で構成される英連邦共和国を築いたイギリスであったことも、多様な価値観に接することができた大きな要因であった。
こんな私がロンドン駐在時に、日本人から見たイギリスについて皆さんにも紹介したいという気持ちで、書き綴ったのが「日英の懸隔」(懸隔:ケンカク。隔たった二つの文化の懸け橋)である。このブログの「日英の懸隔」のコナーで順次紹介するが、これは製薬業界誌の一つである「月刊ドラッグマガジン」の1998年5月号~2000年12月号まで毎月32回にわたって掲載したものである。(読み直したら動きの激しい現代にあって時間の隔たりを多少感じる文章が多かったが、その当時の印象を大切にして原文掲載を原則にして書き直しは最小限にとどめた。)
④.「玄冬」への船出(これから)
さて私の人生をトラック一周の競技に例えて言うならば、“青春・朱夏・白秋”の3コーナーを只管走ってきて、今やっと最後の直線コース「玄冬」に差し掛かった状態だといえるだろう。そして我が身を見つめれば、50台半ば頃から生活習慣病を主にあちこちに不具合が出始めて、今では飲み間違えるほど沢山の治療薬を毎日服用しなければならなくなっている。やがて老いが進み、病気も広がり最後は死を迎えるわけだ。悲しいけどこれが人間に共通に与えられた運命の現実である。
仏教では自分が思うようにならないことを「苦」とよんで、これら「生・老・病・死」を四苦という。さらば先ず「四苦」の現実を確り明らめて(アキラメ)受け止めよう。これが冬の季節の基調色なのであるから。心身共に活力に満ちていた青春・朱夏の私ならば、たとえ運命とて必死に立ち向かって戦ったことであろう。でもこの歳の私には、厳しい冬の現実に立ち向かって戦えない。体調的にも気力的にみても戦いに勝利するはずもない。なぜなら相手は運命なのだからと諦めた(アキラメ)のである。
それでも暗い冬を少しでも“ふくよかな気持ち”で生き抜けたらそれは勝利といえまいか。暗い冬道にも何か「赤味を帯びた灯り」が必ずあるはずだから古人は「玄冬」と名付けたのである。
それにしても「冬道の灯り」とはいったい何であろう。玄冬の入り口に立ったばかりの私には断言できるものは何もない。でも今までの「青春・朱夏・白秋」を生きてきた経験から分かったことを踏まえて、これから一番理想的、でもきっと持てそうな“冬道の灯り”について述べて筆をおきたい。
最初に経験から言えること。それは今までの私は、ほとんどが目に見える部分での理想を一生懸命に追い続けて自己実現に努めてきた。物質的生活の向上には必要なことで、お金・美味しい食事・高級品・資産・出世・外聞・書画骨董…と枚挙にいとまがないが、これらのすべては手中に出来たと思った途端に直ぐ次の欲望に向かって際限がなかった。探し続けても見つからない‘幸せの青い鳥’のようなものである。だから心は何時も平安でいられなかったのである。目に見える部分で理想を追いかけることはもうこの辺で終わりとしよう。次に暗い冬道を照らしてくれる理想の灯りについてである。そもそも玄色に含まれている赤味とは朱色とは違って、はっきり目に見えなくとも心がほのぼのとする赤味ではないだろうか。いわば照明器具の直接光でなくて蝋燭の間接光のようなもの。手をかざせば暖かいし何よりも心の中を優しく包んでくれる。それは鮮やかに照らしだされたあの世に持って行けない物質的満足からではなく、脳死するまで(或いはあの世でも)一緒にいられるほのぼのした精神的満足からだけ得られる心の平安ではなかろうか。
そして誰もが見たいと思っている世界で一番美しい光景は、意外にも目に見えない人間の心の中にあるのではないだろうか…。私は小さい頃よんだ『本当に大切なものは目に見えない』と「星の王子様」に語らせているサンテグジュペリの本を今手元に置いて、「玄冬」に船出していく。
(追記)
一番目は、私の人生の季節の替り目には、きちんと22年毎にある出来事(イベント)があって四季の移り変わりを確認してきた…と本稿の冒頭部分で述べた。それでいけば去年が人生の第3コーナーの曲がり角に相当する66歳時のイベントということになるので追記として触れておかなければならない。それは、パリのアパルトマンに40日間一人で滞在したことである。正確には旅の最初は『(固定ブログに掲載した)日英の懸隔』を書いたロンドンに1週間ほど滞在した。しかしながら、それが白秋から玄冬へのドアをノックしたことになったのかは分からない。先に書いたが、今は67歳という人生のステージを迎えて、心身ともに青春~白秋の時のようなエネルギーを持ち合わせていないので、自分の思うようにいかないこの状態をそのまま受け入れて、「玄冬のほのぼのした灯り」を求めてゆっくり歩み出し始めたというのが正直な気持ちである。ただこのままでは、40日間の出来事とそこで考えたことを忘れてしまいそうである。写真と一緒にこのブログ内の『フランス40日間滞在記』で紹介していきたい。
第二番目は、「人生とか愛とかについて考える」ことが大好きだった少年は、今も「死」というテーマが新たに加わって、やはり独りで格闘中である。つまり東日本大震災で何万人もの方々が死に見舞われた2011年に退職後に、上智大学の哲学・宗教学講座に通い始めて今は週1回の聖書読書会に通っている。小さい頃から考えてきたテーマに関わる雑文その他につては、『ソフィアの昼休み』の中の『吾輩は考えるニャン』というコーナーに掲載していく予定である。同じく小さい時から好きだった猫の写真と随筆とを一緒に掲載する。
以上、「このブログについて(本文)」.「仏蘭西40日間滞在記」.「日英の懸隔」.「吾輩は考えるニャン」.「私の履歴書(本文ほか)」の5本立ての『ソフィアの昼休み』をどうぞご愛読ください。宜しくお願い申し上げます。