第一話.「バカの壁」概説

第一話「バカの壁」について

養老十話の第一話は、彼の実験的出版であるのと同時に、その記録的売り上げで彼をして社会的に有名人に導いた「バカの壁」について取り上げる。本書で彼が訴えたいことを理解したら、具体的な壁を乗り越える行動に移すことである。ただし、「自分自身を利口だと思っているバカ」の壁であることを忘れてはならない。
タイトルに使われている、“バカ”の言葉は他人から言われたら誰もが屈辱的に感じるものだが、養老は敢えて使って国民の耳目を集めた。読めばわかるのだが、「バカ=自惚れ・驕り・独りよがり」と使われており、一種の自分だけがお利口で「あーすればこうなる」と考えがちになることを“バカ”と呼んでいる。つまり脳科学者として、自分の考えが正しいと自惚れてしまいやすい、大方の人間の脳活動の習性や癖に警告を鳴らしている。私も皮肉を込めて言えば、Bigheaded(頭でっかち)な人ほど自分の壁を作りやすくて、自らその壁を乗り越えようとしないのが現代社会だと言えそうだ。AI技術の“進歩”を、人類の“進化”だと信じて疑わない人は、世界の頂点に立つのは我々人類だという頭でっかちの人間が急速に増え続けていることに大いなる危機感を禁じ得ない。所詮、人間の意識や理屈(=ロゴス)で、自然の摂理(=ピュシス)を変えることはできない。なぜならば、人間自体が自然の一部だからである。あーそれなのに、今日もロゴスでこの文章を書いている自分がここにいる。本当に大切なことは言葉にならないのに。

まず本書のはじめで、彼自身が“実験的出版”であることを独白しているが、一体何が実験的だったのだろうか。本書の内容に入る前に実験的書物の意義について共通認識しておきたい。なぜならばベストセラーとなった成功要因すべてが、彼の学問的主張に他ならないからである。

実験的書物としての3つの成功要因

(1)「タイトルの意外性」

☞脳科学者の養老は、「人間の行動は、感覚によって脳にインプットされたものによって身体が動いてアウトプットするものである」ことを主張している。平たく言えば、彼は“学習効果”について実験をしたのである。つまり店頭でタイトルを見て(視覚学習)から買う気(購買行動)になることを実験し成功した。題名「バカの壁」というタイトルの意外性は、彼が最初に書いた「形を読む」(培風館)からとったもので、書帯にある「話せばわかるは大嘘」や「平成No-1ベストセラー」は出版元の新潮社発案である。養老も出版社とも実験大成功‥とは結果論であって、タイトルはモノの見方の本質(=学習効果)を見事についていることが、本を読み終わった時に初めて分かるという仕組みになっている。なお学習効果とは、インップトされた情報を脳活動によって具体的行動に反映するプロセスである。

(2)「書き下ろしでない初めての口述筆記本」

☞自分の考えを壁の内側に引きこませることなく、養老の語りを編集者が口述筆記した。自分の主張を他人の言葉で文字化することで自分という壁を乗り超えた実験本として世に問うたのである。養老自らが本書の前書きで、「結局我々は、自分の脳に入ることしか理解できない。つまり学問が最終的に突き当たる壁は、自分の脳だ」と述べていることからもよくわかることである。

(3) 「人生の意味は自分だけで完結するものでなく、常に周囲の人や社会との関係から生まれる」ことを実証した。

☞養老はナチ収容所での経験を綴ったフランクルの「夜と霧」に感銘を覚えたと色々な場所で吐露している。元々(収容所的な)国立大学の象牙の塔を定年前に退官し、広く社会との関係を求めて実験出版した本が本書だといえよう。その後も新刊本、講演、YouTube、NHK‥などのメディアを使って人生の意味を自分の壁に閉じこもらないで、広く世に問うているのである。難しいことを少しでもわかり易くメディアを通じて発信し続けている。

「バカの壁」のポイント5点

次に本書の要点を敢えて5点に絞って以下にまとめてみる。

(1)「バカの壁」とは、自分たちが普通であると思い込んでいる信念や常識の範囲内から出ることができない壁のことを指す。養老孟司は、「バカの壁」を超えるためには、謙虚さや常識への疑問、新しい情報への積極的なアプローチが必要だと主張している。要するに自分は「わかっている」と思い込んでしまって、他者との関係性において勝手に築いてしまう壁のことである。

自分の脳で「あーすればこうなる」と考えて行動すること自体が正に“バカ”だと彼は言っているので実に厄介な話である。誰でも「あーすればこうなる」として行動しているのが現実ではないか。ただ壁が出来るのは当然としても、自ら他人の考えを聞くことが壁を乗り越えられる分岐点である。

(2)そんな人間の脳は、「できるだけ多くの人に共通の了解項目を広げていく方向性」をもって進化してきた。その進化してきた手段が“言葉”である。言葉はギリシャ語の「ロゴス」(=言葉・理屈・概念・思想‥)に相当する。人間だけが持って他の動物には殆どないのがロゴスである。養老十話「言語の形成」で深堀して説明することにする。

(3)ポイントの3番目は、「情報化社会」では、変化している自己を、不変の「情報」だと規定してしまっていると指摘している。人間の脳は情報として固定化したものしか扱えないと主張している。このポイントも「情報と情報処理の違い」…などを理解しないと養老の主張を真に理解できないようだ。このポイントも別個に養老十話「情報について」で詳しく説明することにする。

(4)身体を動かすことと学習とは密接に関係している。ある入力をした時(=学習)の脳活動によって次の行動が変化するからだ。しかし、その出力の現れである「身体性」に関しては殆ど忘れられがちだ。それゆえ養老は身体性を活かした感覚で情報を取り入れることの重要性を強調している。その反対は、「あーすれば、こうなる」という行動を伴わない意識の世界だけで、都市化・脳化社会にどっぷりつかっている。そのような世界に慣れ切って暮らしている我々には、養老が主張していることが分かり辛いのは確かである。なお他の脳科学者の知見によれば、「身体性を持って動くことによって得られた情報が脳を高度化する」として、AI時代が脳活動の氷河期に陥る危険性の警鐘を鳴らしている。養老十話で加藤俊徳著の「一生成長する大人脳」についても是非紹介したい。具体的な脳科学的根拠をあげており養老の主張が目から鱗となる。

(5)一元論的思考の超克

バカの壁は自分で勝手に作った壁の内側に閉じこもるのという一元論的思考に起因する。従って壁の内側に閉じこもることなく、積極的に広く周囲や社会に問いかけながら行動することである。それが「バカの壁の超克」に繋がるといえる。

これら5つのポイントは、後に「養老十話」で深掘りするので、要約はこれくらいにして話を前に進める。

だれにでもあるバカの壁

誰でもが自分が知りたくないことについては自主的に情報を無視、遮断してしまっている。「知っている」ということの実態はその程度であり、ここに存在する壁が正に「バカの壁」だといえよう。

同じ事柄を見聞きしても、現実の捉え方は三人いれば三者三様になる。しかし現代では、「自分たちが物を知らない、ということを疑う人」がどんどん減っているので一定の情報を得てもわからないことはたくさんあることを認識することから始めなければならない。実は現実のディテールが「わかる」のは、そう簡単なことではないのである。それは、人間の何倍もの感覚能力を持つ犬、猫と一緒に暮らせばすぐにわかることである。

「客観的正しさ」を安易に信じる姿勢は、非常に怖い。「科学の世界なら絶対があるはずだ」と信じる人は多いかもしれないが、そんなことはまったくない。たとえば「地球温暖化の原因は炭酸ガスの増加だ」ということがあたかも「科学的事実」のように言われているが、これは一つの推論に過ぎない。そうして事実と推論を混同している人が多い。科学を絶対的なものと妄信すると危ない結果を招いてしまう。

入力は同じでも出力はヒトによって変わる

「知りたくないことに耳をかさない人間に話が通じない」ことは、よくあることだ。このことは、脳の入力と出力の両面から説明できる。入力される五感をX、出力としての人間の反応をYとすると、Y=a Xという一次方程式のモデルが考えられる。ここでのaという係数は、いわば「現実の重み、すなわち実感としての受け入れ度合い」といえる。

通常、入力に対して何らかの反応があるのでaはゼロではないが、非常に特殊なケースとしてa=ゼロ、つまり入力があっても全く行動に影響しないケースもある。入力がその人にとって現実的ではないということを指す。たとえば足元に虫が這っていても気にせず無視するケースだ。興味がなければ完全に目に入らなくなる。ことごと左様に人間のインプット能力たるやいい加減なものである。だから「同じという概念で丸める、つまり“同じ化”する言葉が生まれたと言っていいようだ。

逆に、a=無限大となるケースの代表例は宗教などに見られる原理主義だ。ある情報や信条が、その人にとって絶対的な現実になる。その状態は人のすべてを支配するa=無限大状態で、イスラム原理主義者たちのテロ行為が生まれやすいのである。

aは、感情を考慮に入れれば、ゼロより大きくも小さくもなる。行動にはプラスマイナスがあるのだ。aがあるから行動が相当に変わる。aの値によって、「ある状況において、その人が適しているか、適していないか」も決まってくる。「基本的に世の中で求められている人間の社会性」とは、「できるだけ多くの刺激に対して適切なaの係数を持っていること」だろう。感覚と行動の間を取り持つ“a”の存在が大変重要である。これが、入力は同じでも出力は人によって変わる理由である。

共通了解と個性

「わかる」ということが本当に分かっていないのが人間である。養老に「ものが分かるということ」という本があるくらいである。そして「共通了解」と「強制了解」の2種類があることから説明する。(これは理屈ではない、言葉の定義と言っていい)。

「共通了解」は「世間の誰もがわかるための共通の手段」のことで、言語はここに分類される。その言語からより共通の了解項目を抜き出してくると、「論理」や「論理哲学」、「数学」になる。数学は、証明によって強制的に「これが正しい」と認めさせられる論理であるため、「強制了解」という領域になる。

ここで大切なことは先述した人間の脳が、「できるだけ多くの人に共通の了解項目を広げていく方向性」をもって進化してきたことである。共通了解は「多くの人とわかり合えるための手段」であり、共通の情報を広げるマスメディアが発展していくことは自然な流れだ。

一方で、「個性」や「独創性」を重宝する動きが増えてきた。2進法という単純な論理で成り立っているITなどの共通了解を広げることで文明が発展してきたことを考えると、「個性」が大切だというのは明らかに矛盾していることになる。我々の実際生活においては、個性が大事だとしながら他人の顔色を窺っている。教育ママが「個性豊かになりなさい」と連呼する現状をまずは認めなくてはならないだろう。

会社のような組織に入れば徹底的に共通了解を求められるのに、「個性を発揮しろ」と要求される結果、「マニュアル人間」が生まれたのも全く同じ現実である。養老もアカデミアで、個性的な論文を要求されて嫌気がさしたという。

他人とは違うと認識しながら、マニュアル(=一般的なルール)さえあれば正確にこなしてみせよう、という不遜な態度をとる。自分はバランスがとれていて何にでも対応できると思っているからだろうが、親の皮膚を子どもに移植することさえできないように、「個性」は最初から個々人の身体的特徴として既に与えられている。「個性」は脳ではなく身体にすでに宿っているというのが養老の主張である。

壁を作る要因

自己の情報化

情報は刻々と変化し続ける一方で、それを受け取る人間には「個性」があり変化しない、と思われがちだ。しかし、記録された言葉やデータは変わらず永遠に残り続けるし、私たちは日々変化している。寝ている間も含めて成長や老化をする。それでも毎朝生まれ変わったと感じないのは、社会生活を営むために、脳は「自己同一性」という「共通性」を追求しており、「私は私」と思い込むからだ。

「情報化社会」では、変化しているはずの自己を、不変の「情報」だと規定してしまっている。だからこそ、人は「個性」を主張するのだろう。

生きている人間の意識、心の世界に関しては、感情的にも理屈的にも、共通であることを前提にするしかない。お互いに話をしたり説明したりするのはそのためだ。個性は意識に宿るという誤った認識が、「壁造り」の大きな要因となっている。

「考える」ということ

先述のように、意識が共通性を求めることを示す代表例が言葉だ。言葉を脳がどのように処理しているかを考えることで、日本人には理解しづらい定冠詞と不定冠詞の違いもわかってくる。例えば、

あらゆるリンゴはすべて違っているのに「同じ」リンゴだと認識できるのは、そうしないと世界がバラバラになるからだ。リンゴという言葉を見たり聞いたりしたとき、頭の中では「リンゴ活動」とでもいうべき動きが起こり、現実のリンゴを見なくても頭の中でリンゴを思い浮かべることができる。この「リンゴ活動」が発生した時点では「リンゴ」は脳内の過程に過ぎないので色も形も決まっておらず、「an apple」と不定冠詞が付く。リンゴを「特定の私」が手に取ることでリンゴはやっと実体化するため、英語では定冠詞がついて「the apple」となるのだ。

動物や虫は、本能という脳の中の単純な入出力で反射的に行動している。一方で、人間では入力と出力の中間のところに巨大なバイパスができた。人間の脳は巨大化し、外部からの入力だけでなく、脳内で入力をつくれるようになった。この脳は筋肉と同じで、動かさないと退化する。だから刺激を自給自足して、脳を無駄に動かし続けることが必要になった。これを私たちは「考える」と言っているのだ。

こうして人間は、具体的に存在しているものだけではなく、抽象的概念、たとえば「神」を生み出した。「神というのは人間の進化、脳の進化そのもの」なのだ。

「身体問題」と「共同体の問題」

戦後、私たち日本人は「身体」の問題について考えなくなり、脳(あーすればこうなると考える世界)だけで動くようになった。「都市化」された利便性を優先する世界に飼い慣らされて、身体性を活かした感覚の世界をすっかり忘れてしまった。つまり、自分にとって一番身近な存在である“身体”の扱い方を個人がわからなくなってしまったのだ。

身体を動かすことと学習とは密接に関係している。ある入力をした時の出力の結果によって次の出力が変化するからだ。しかし、その出力、身体は忘れられがちだ。

社会にとっての「身体問題」は「共同体」の問題である。不況によるリストラは企業という共同体からの排除と同じであり、企業という共同体まで崩壊していることを示している。社会全体が共通の価値観をもっていた時は、大きな共同体が成立し得ていた。かつての「誰もが食うに困らない」という共通の理想が満たされた現代では、個々人の理想像がバラバラになっている。しかし「人生の意味」は「社会との関係から生まれる」のであり、日常生活で「意味を見出せる場はまさに共同体でしかない」。

バカの壁を作らないために

賢い人と賢くない人とで脳の外見は基本的に違わない。利口の要素を何で測るかといえば、それには社会的適応性が関わってくるので難しい。

脳は、組織としては極めて単純なものだ。脳の仕組みについては「ニューラル・ネットワーク」というモデルで説明がなされているが、このモデル自体もとても簡単な構造になっている。「人間の反応は、刺激に対して神経細胞が反応するかどうかで変わる」という程度のことなのだ。(刺激と反応する場所を8か所に分けて説明しているのが先述した加藤俊徳氏である)。

脳の能力を、抽象的な「頭の良さ」ではなく、客観的に測定可能な「運動能力」から考えてみよう。脳が視覚的な刺激を受けて筋肉を動かす指令を出す過程で、神経細胞を経由するリレーが必要になる。スポーツ選手は、普通ならばA→B→C→Dと順に進むところをショートカットしている可能性がある。天才的な人は、そうしてプロセスを省略するなど、脳の働かせ方に違いがあるのだろう。

教育の本質

著者は、学生や教育そのものに対して絶望的な気持ちになることがあるという。「若い人をまともに教育するのなら、まず人のことがわかるようにしなさい」と説く。養老十話で「教養とは人の心が分かること」ということについて省察を加えることにする。

身体や自然への目線を回復させるかのように見えたゆとり教育や自然学習も、結局意味はない。

教育の現場が、下手なことをして叩かれるくらいなら何もしないという状況に陥っているという現実がある。教師は、子どもではなく校長、教頭、PTA、教育委員会、文部科学省の顔を見ないといけなくなっている。そもそも教育とは、自分自身が生きていることに夢を持っていて、生徒に対して「自分を真似ろ」といえるような人物が担うものではないか、と著者は主張する。そこまでいかずとも、自分が好きなことを子どもに伝えられる存在であるべきだ。努々受験合格を願って予備校に通うのは教育ではない。

学問とは、流転していくものを「情報」という変わらないものに換える作業だ。最近の学生は、すでに情報化されたものをコンピューターで処理する能力には長けているものの、「人間そのものは自然なのだから、情報ではなく自然を学ばなければならない」という姿勢が欠落している。

一元論を超克するために

著者の考えは二元論に集約される。たとえばイスラム教やユダヤ教、キリスト教といった一神教は一元論だ。教義がコロコロ変わっていたら信頼されない。

バカの壁は、「一元論に起因するという面」がある。バカには壁の内側だけが世界なのであって、向こう側が見えていない。

もともと日本は八百万の神の国であり、単純な一元論は無かった。それが近代になって、いつのまにか一元論が主流になっている。土地から離れ、基盤を持たない都市の人間は弱い。楽をしたくなると、人は脳の中の係数aを固定したくなる。そうして思考停止すれば、強固な壁の中に住むことになる。

知的労働、ものを考えることは決して楽なことではない。崖を一歩登って「知ることによって世界の見方が変わる」ということが、わかる人が少なくなってきた。

一元論を否定するためには、別の普遍原理を提示しなくてはならない。今後日本が拠って立てるとしたら、親しい人間なら殺せないはずだといった「人間であればこうだろう」という普遍性、「常識」だろう。

「バカの壁」のまとめ

平成で一番売れた“バケモノ”新書であり、450万部という驚異の数字をたたき出している。

本書を一読すると、著者は考えることをやめてしまった若者に警鐘を鳴らし、価値観を見失った社会そのものに危機感を感じていることがよくわかる。

ただし、養老が40年間ほどのアカデミアで研究してきた専門分野をベースにした「バカの壁」だけを読んでも、養老が指摘する危機のなかにあまりにもどっぷりと我々が漬かっているのですぐには覚醒して理解が出来ないでいるというのが実感である。

記録的なベストセラーであるにもかかわらず、内容を理解して行動に移せないジレンマがそこにある。

本書では、著者が実際に教育の現場に立って肌で感じた、「バカの壁」の「うすら寒さ」が具体的にいくつも書かれている。まずは実際に本を手に取って、或いは読み直してその危機感を実感してほしい。それから行動に移しても決して遅すぎることはないというのが私の偽らざる実感である。