はじめに
第一話の冒頭で紹介した札幌医大情報サイトから、政府・専門部会・マスコミが殆ど取り上げなかった日本人の『免役・抗体』の存在意義がクローズアップされてきた。つまり感染の波ごとに重症化率および致死率が小さくなるという『感染者増と致死率減』の逆相関性が日本では何を意味するかと言えば、感染の波ごとに集団免疫率を高めていたことが浮かび上がってくる。
COVID-19が満2年を経た2022年1月には、オミクロン株感染者急増への対応として「まん防適用延長…」のニュースが今日も国中を賑わしている。第一話でも話したように、日本のコロナ対応が(無症状者も含む)感染者数の増減という局面対応的な「危機管理」から脱して、総合俯瞰的な「国益重視のリスク管理」にシフトしなければ国の地盤沈下に歯止めがかからない。国益とは、国民の命はもちろん経済/社会活動の総和Σを指すが、私にはコロナ感染者数(正確には無症状者も含む検査陽性者数)の急増が国益を揺るがすレベルのリスクとは到底思えない。
当然の事ながら、国益を揺るがすのは感染そのものではなく、感染後の致死率が高まって国民の命が奪われることである。報告されているコロナ死亡者の年代別内訳をみると、自然死のそれと殆ど同じ傾向にある。日本人にとって、COVID-19の原因ウイルスSARS-CoV-2は、感染力は強いが毒性は国際比較上も極めて低いことが明らかである。
(なおオミクロン株で重傷者は増えないのに死亡者が増えているのは、高齢者施設などで死亡確認後に検査したら陽性だったご老人は全てコロナ死亡者と認定されているからではないだろうか。それほど日本人の間には無症状の感染者が拡がっており、“集団免疫獲得”も最終段階に入ったのかもしれない。コロナ死亡者数は超過死亡概念で集計されていることと併せて、日本のコロナ死亡者総数20,000人超と言う事実に対して、数字の裏に隠されている真実を冷静に知ることがこの時期は特に大切である。日本はPCR陽性者数に一喜一憂するコロナ対応を2年間突っ走ってきたことで国益を著しく損ねてしまったことを改めて反省すべきである)。
そもそも政府はCOVID-19を2020年初頭に、致死率が感染症群の中で上から2番目に相当する大変怖い病気に指定してコロナ対応が始まった。具体的には、マスコミも欧米の映像を流しては、あたかも日本で今起きているが如き報道が国中を駆け巡った。ところが2020年春先から、日本が欧米に比べて一定人口当たり死亡者数が極端(1/17程度)に少ない事実に全く目を向けないで、逆に「コロナは怖い感染症」と言う印象を国民に植え付けた。感染症恐怖症は容易に国民に感染するものである。情報公開に至るずっと手前の問題である。
このような「難感染国・日本」の謎を“Factor-X”と呼んで、感染症専門学者以外の新しい専門分野(ウイルス学・免疫学・遺伝子学‥)の先生方が意見を述べられたが、(20世紀型)感染症学的アプローチャーの意見(=自粛の繰り返し)しか採用されなくて今日に至るわけである。感染実態に見合わないことが明らかな「第2類指定感染症・コロナ」も2年間以上塩漬け状態である。
つまり、感染者増という現象に着目して局面的危機管理の自粛の繰り返しで終始対応してきたのが日本である。致死率の変化(=集団免疫率)に応じた総合俯瞰的なリスク管理で「感染予防と社会経済活動の両立」には一切目を向けられなかった。リスクの変化に応じて柔軟に対応して国益全体の棄損を極少化するのがリスク管理の真骨頂だといえる。
日本の学界が、“多勢に無勢”の保守的学会と言ってしまえばそれまでだが、その体質が国益を損なうことに繋がったとなれば看過できない。「ウイルス・免役・遺伝子・バイオテクノロジ学…等々」は、20世紀に生まれた新しい専門分野で科学技術の進歩を背景にした発展途上にある分野だといえる。一方人類は細菌類やウイルス由来のパンデミック感染症には永い間悩まされ続けてきた歴史を持つが最終的にはヒトが持つ免役・抗体に拠る“集団免疫”を構築してウイルスにそれなりの蹴りをつけてきた。20世紀には殆どの細菌類を、抗生物質や抗菌剤の開発で撲滅することに成功したわけだが、こと原因ウイルスの撲滅に成功したのは長い人類の歴史の中でも“天然痘と牛疫”だけであることを21世紀に生きる我々は先ず知らねばならない。それもワクチン接種の徹底によって達成されたもので、今後ともウイルス自体を撲滅することはまず不可能なことである。(感染症状の緩和治療を担う薬剤は沢山承認されつつある)。20世紀には薬剤で撲滅できた細菌類と、ワクチン接種の繰り返しで漸く撲滅できたウイルスとは全く別物なのである。ウイルスとはソンナモノ(=ウイルスの実態:ザインsein.being)であることを知れば、「ゼロコロナ」、「感染を止めて経済は止めない」、「ウイルスに打ち勝つ証にオリンピック開催」…の一聞勇ましくて頼りになりそうな首長たちの発言が実はウイルスの実態seinを知らない空しい言葉であることが分かる。我々人類にはウイルス被害を管理・コントロールできることが非常に限られていることから知るべきであろう。ウイルスの実態が分からずしてウイルス対応(ゾルレン.sollren.should)しようとするのは人間の自惚れ(英語でbig-headという)に過ぎないのである。(註1「ザインとゾルレン」参照)。
因みに先に述べた新しい専門分野の学者たちの意見を以下簡術させていただく。
・ウイルス学者☞人類がウイルスに感染するのは当然起こり得る(Acceptable Risk)
・免疫学者☞感染することで免役を稼働させて重症/死亡リスクを低める(集団免疫獲得とは人類が持ち得る最終手段)
・ウイルスによって人類は進化してきた側面が大きい(胎盤を創ったのはウイルス由来遺伝子PEG10)
これらの意見に共通することは、「人類の歴史はウイルスと持ちつ持たれ(give and take)の生態系を築きながら進化してきた」と言うことである。人類を主語として言えば、giveとは感染すること、takeとは免役獲得・水平方向の遺伝子形成となるが、後章で詳説する。
ウイルスのことを知れば知るほど『人為は自然に如かず』、自然の摂理に人類は敵わないというのが私の実感である。本稿ではウイルスの実態をより深く知ることで21世紀の人類とウイルスとの在り方が自ずと浮かび上がってくるのではないかと考えた。題して『ウイルスを介して21世紀の人類の在り方を考える』である。
以下の順に持論を展開する。各章のポイントを、☞で簡述した。
―目次―
(1).第一話補足 ☞リスク管理の重要性
(2).実態と対応 ☞ザインとゾルレン
(3).Big head(人間)とSmall head(ヒト) ☞ロゴス人間と自然ヒト
(4).オミクロン株感染爆発の意味すること ☞集団免疫獲得とは
(5).ウイルスの実態(ザイン.sein) ☞ゾルレンの一人歩き
(6).ヒトの「受け入れ得るリスク」(Acceptable Risk) ☞ヒトの覚悟とは
(7).傲慢さの出自
(7-1). 17世紀の「機械論的世界観」 ☞非人間化の始まり
(7-2). 20世紀とは ☞「行き過ぎた脳化社会」の限界
(8).まとめ
(1).第一話補足(リスク管理の重要性)
日本におけるコロナ対応が落とし穴に嵌まった一番の原因は、無症状者も含む感染者数(正確には検査陽性者数)の増減に一喜一憂して自粛を繰り返したことに尽きる。感染者数の増加を即国家危機と捉えて、専門委員会の提言通り局面的な危機管理の自粛(=外出制限)一本槍で臨んだことが最悪の対応だったと私には思える。つまり自粛で感染は止められないばかりか身体の免疫機能を損なってしまう。
第一話と重複する点が多々あるが、本項では主にリスク管理の観点から、感染者数の増減に今なお一喜一憂しているコロナ危機対応の危うさにもう一度触れてから本稿第二話の本論に入りたい。
コロナの累計(2019年末~2022.2月)死亡者数20,000人超という数字だが、それまで(2018年以前)のインフルエンザ原因の死亡者数が毎年平均10,000人程度(厚労省データ)であったことと比較すれば、毒性的にはコロナもインフルもほとんど変わらないことが分かる。(風邪の3シーズンが経過したことから言えば2/3程度の毒性と言っても大きくは違わない)。しかもコロナで亡くなられた年齢別構成をみると、自然死のそれとほぼ同じで60歳以上が95%以上を占める。
また日本人100万人当りコロナ死亡者数158人を米国人の2,498人と比較すると約1/16と日本人の方が極端に少ないことが明らかである(札医大情報)。このようなCOVID-19の疾病実態が、100年に一度の国家的危機(財務省主計局談)だとして莫大な予算措置を講じて対応した日本政府は、感染者数増加という局面の危機管理はできたが、俯瞰的視野に基づく国益(=国民の命や社会活動の総和Σ)重視のリスク管理が全くできなかったと言っても過言ではなかろう。
しかも感染者数の増減自体は人類にはコントロールできないことが認識されていない。Uncontrollableな感染者数の増減に局面的危機管理、即ち効果が無い自粛を繰り返したから国中が大混乱に陥ったのも当然の帰結である。
『国益重視のリスク管理』の意識が僅かでも首長にあれば、「ゼロコロナ(=ウイルス撲滅)」や「感染を止める」「ウイルスに勝利した証に…」…等々の発言はあり得ない。何故ならば国益重視のリスク管理とは、「人類にウイルス由来感染症は必ず起こり得るという“Acceptable Risk”(受け入れざるを得ないリスク)を大前提にして、国益の棄損を極少化するコロナ対応」に他ならないからである。
なお言わずもがなのことであるが、政府には政策の決定とその結果に対して説明責任が常に欠かせないことである。スウェーデンのコロナ対応が勝利(ヨーロッパで一定人口当たりのコロナ死亡者が最低であること)した背景には、政府の折々の説明責任が国民に丁寧に実行されたことがあるようだ。
則ち、物事の実態(being)をザイン、対応(should)をゾルレン(※1)として換言すれば、日本のコロナ対応は「ザイン無くしてゾルレンだけに走った」と言える。ゾルレンだけのコロナ対応の結果が「向こう2年間のGDP成長見込み%がG7中最下位の日本」(IMF)という最悪の結果を招くのも当然の結果である。
自分自身を超越した場所から客観的に見てコントロールできる能力を「メタ認知能力」と言うが、日本政府は足元のCOVID-19を客観視出来ない振り(pretend)をしているように私には思える。コロナ対応で科学的事実に“分からない振り”をしなければならない国に希望を感じられない。感染者数の増減に一喜一憂する局面的危機管理の“自粛路線”に見切りをつけて、「国益重視のリスク管理」にシフト転換すべきである。個人的には2020年コンウォールG7サミット開催頃には「感染予防と社会/経済活動の両立策」に踏み切れたはずだと思っている。何よりも一刻も早く「第2類相当指定感染症・コロナ」の仮想現実社会から脱却することである。
コロナ死亡者数が極端に少ない日本がGDP見込み成長率が最低であることをどうしても受け止めることが出来ない。その原因は「ザインなきゾルレン」に固執したからだというのが私なりの結論である。
第一話から時間が経ったので、念のため札医大のリンクを再度記す。
https://web.sapmed.ac.jp/canmol/coronavirus/death
COVID-19で亡くなられた方々には申し訳ない例えだが、ボヤ火事を100年に一度の大火(財務省主計局談)と見立てて予算措置を講じて対応し続ける日本政府には“リスク管理の概念”が完全に欠落している。自粛を繰り返しては休業補償予算をつぎ込むのは、所謂“マッチポンプ”に等しい。リスクの公平原則・リスク最適化の原則(※-1)に大きく違うものである。
COVID-19の致死被害実態が「第2類指定感染症相当」という分類に合わないことが確認できた時点(遅くとも2020年秋頃)に、国民にCOVID-19の実態(ザイン)を丁寧に説明のうえ、適切な対応(ゾルレン)を提示すればよいだけである。インフルエンザ並みの疾病で国全体の医療崩壊が起きるような日本の医療体制ではないはずだ。
政府が決めたことに忖度して、違う意見を頑なに拒むのがお役人や専門ぶんかかいの任務ではないはずだ。その結果の最大被害者は一般国民であり、国民の社会/経済活動の総和である国益の毀損も甚だしいのも当然の帰結である。私が「人災コロナ禍」と断じる所以である。
(2).物事の実態と対応(ザインとゾルレン)
そもそも同じウイルスでもヒトへの“感染力と毒性”は別物で、間に横たわっているのが“免役力・抗体の保有度合い”である。一定人口当たりの死亡者数が欧米諸国より極端に少ないのは、欧米人にない免疫力と抗体を日本人が持っていたと考えるのが一番自然だろう。そしてパンデミック感染症に対して人類が持ち得る最終手段が『集団免疫(率)』である。別言すれば(自然感染かワクチン接種かの手段は別として)一人一人の免疫を高めた集積成果だと言える。
免疫を強めることを“boosting immunity”と言うが、ブースター接種(再接種)のboostとは、有体に言えば抗原ウイルスに適宜感染(曝露)することである。要するに免疫獲得とは、抗原に曝露して初めて起動するものである。
一般論であるが、「心身の成長は幾多の外部侵入者に遭遇しながら自らを鍛えあげる事」にかかっていると複数の免役専門学者が述べている。
(免疫を鍛える適宜感染の一つがワクチンであるが、ヒトが身体に宿す自然免疫でウイルスに対峙する方が安全性・持続性・効力…等全ての点で勝っているのは言わずもがなのことである。但し先の年代別死亡者の情報から分かるように高齢者にはブースター接種で当面の感染を防ぐことが得策であろう)。
ヒトが感染する事自体を人類の“Acceptable Risk”(受け止めざるを得ないリスク)として「国益重視のリスク管理」を行う上で、コロナ対応の基本が免疫・抗体の存在にあるとする考え方は、マスコミ等では殆ど取り上げられなかった。誰でも感染しないことを第一に行動するのは当然のことだからである。しかしインフルエンザとの毒性比較や、日本が欧米諸国より極端にコロナ死亡者が少ないことを大前提に包括的なコロナ対応(=国益重視のリスク管理)を指向するのが一国のコロナ対応だと私は考える。マイナーな意見として看做された彼ら免役専門学者たちの説明をもう一度簡単に紹介する。
・2019年末から武漢発コロナウイルスの異形株に数回に分けて感染を繰り返して得られた集団免役が2020年春先頃には既に得られていた(京大.上久保靖彦)
・元々中国と地理的・歴史的にかかわりが深い日本固有の土着ウイルスに感染しながら鍛え上げられてきた免役を日本人は備えている(大阪市立大.井上正康)
・人類が持ちうるウイルスに対峙する最終手段(順天医大.奥村康)が「集団免疫」である。…等々である。
これらの発言は、過去2年間の幾つかの感染の波と被害状況とを照らし合わせて見ると正鵠を射た正論であることが素人の私にも理解できる。大変腑に落ちるものである。ただ(しつこく繰り返すが)いずれの発言も政府・専門部会・マスコミには2年間全くと言っていいほど取り上げられなかったことに疑問を禁じえないのである。日本の学会に限らずとも、“多勢に無勢”の伝統的体質が専門家たちの間には根強いのかもしれない。しかし科学的な実証データに基づく免疫/ウイルス学者の主張論文に対して頑なに保守的スタンスを取り続けた結果(=自粛の繰り返し)が国益を損ねたとなれば事は重大である。
20世紀に抗生物質を開発して細菌類の撲滅に成功した人類だが、ウイルスの撲滅は不可能(治療薬はあるが)であることをまず知ることである。ウイルスとは持ちつ持たれつ(give and take)一緒に暮らすしかない。つまり人類は免疫でウイルス対峙するしかない。その一つがmRNA型ワクチンであり、もう一つが自然暴露で得られる(身体に宿す)自然/獲得免役である。
苦労知らずの温室育ちの人間が成人しても世間の荒波に潰されてしまうのと同じである。
確かに、『感染拡大が集団免疫率を上げて致死率が下がる』とだけ言われても普段コロナ対応に関する情報源としてTV等のマスコミに頼っている大多数の国民には戸惑いは隠せないことだろう。
ただ感染症学一本槍のコロナ対応の中で、免疫学専門学者の意見は大変新鮮に感じる。私はワクチンのブースター接種に全反対するものでもなく、増して今こそ感染すべきだという暴言を吐いているわけではない。感染者数急増の裏側に潜む科学的真実をきちんと理解しなおすことが免役に偶々恵まれた日本人が次のステップに踏み出すうえで最も重要なことではないだろうか。
今こそ『感染予防と経済/社会活動の両立策』にシフト転換すべきことを主張する。
要は、COVID-19やSARS-CoV-2の実態を知って日本独自のコロナ対応があってしかるべきではないだろうか。所詮ウイルス撲滅なんぞ人類に出来ないことを先ず知るべきである。次項では、素人の私が知る限りであるが、ウイルスの実態・ザインを述べる。21世紀のウイルスと人類の関係も浮かび上がってくることを確信している。
【※註―1.seinとsollren】
・sein➜独語でザインseinと言って存在/実態を表し英語の“being”に相当する。
・sollren➜独語でゾルレンsollrenと言ってすべき対応を表し英語の“should”に相当する。
ザインがあって初めてしかるべきゾルレンがある。自利を優先する人間の脳活動は往々にして自然のザインまで自己都合で変えようと考えてしまいがち(ゼロコロナ発言)である。「三島由紀夫はゾルレンの人だった」とは、彼の死を悼む一人の評論家の文章にあったことを思い起こしている。
(3).Big head人間とSmall headヒト(ロゴス人間と自然ヒト)
先ず本項で言及するホモサピエンス(=賢い人間)を、一つのKey Wordである“大脳活動(意識)”に頼る程度で、ヒトと人間の2つに分類して持論を進めたい。
“人間”とは、自然をロゴス(論理・言語・科学技術…で意識・大脳で考えた成果物)でコントロールできると考えるbig-head(自惚れ)な存在で無意識のうちに脳化社会を築いている現代ホモサピエンスでAI化を目指している。
“ヒト”とは、他の生物と同じく文明・文化的影響を余り考慮しないsmall-headな存在で、自然に対して謙虚かつ敬意を払うホモサピエンスで自然回帰派である。「脳化社会」(養老孟子談)の最中にあって「自分を“ヒト”と考える割合はどんどん少なっているようである。
“人間”を特徴づける“big-head”とは“自惚れ”として英口語表現にあるようだが、“ヒト”を特徴づける“small-head”とは英語表現にはない。本稿向けに私が造ったbig-headの対義語である。要するに“自利”に適わない相手をクリーニング・根絶する行動に走る頭でっかち(big-head)なホモサピエンスが20世紀に突出した。その結果として、二度の世界大戦とナチのホロコーストが典型的な例として挙げられよう。
ところで、ホモサピエンスの賢さの一つが、人間の脳活動の成果であるロゴス(論理・科学技術…)の進歩によってウイルスと対峙しているところである。具体的には、遺伝子工学やバイオ技術を駆使したmRNA型ワクチンの早期開発は、自然免疫に恵まれていなかった欧米人の重症化や致死を極少化することに多大な貢献をしたものである。またウイルス感染した症状の緩和や重症化を抑制する薬剤開発も続々と知られている。
しかしながら、「ウイルスは(細菌類と違って)根絶できるものでない」ことを頭に銘記しておくことである。ロゴスで自然をコントロールできないという限界を知ればウイルス感染が人類にとって避けられない現実(Acceptable Risk)を確り受け止めることもホモサピエンスの賢さの一つであることを理解できる。つまり人間の身体そのものが大脳活動(意識)の思うように制御、コントロールできないまさに“自然”そのものであるということである。先に「人間とヒトを区別」した理由でもある。
このように考えてくると、ウイルスに感染すること自体が、我々が地球に暮らしていくうえでの“Acceptable Risk”(人類が受け止めなければいけないリスク)であることが分かってくる。「ゼロコロナ」、「ウイルスに打ち勝つ証として…」という発言が如何にbig-headな自惚れ人間の発言であるかが分かってくる。
(因みに人類が根絶に成功したウイルス由来の感染症は天然痘と牛疫の2つしかない。これは種痘ワクチンの接種の徹底によって有史以来人々を苦しめ続けた天然痘の歴史にピリオドが打たれたものである)。
このように、自然に立ち向かうロゴスの限界を弁えると同時に、人類とウイルスの関係が持ちつ持たれつ(give and take)の生態系関係であることを理解する賢さを持っているのもホモサピエンスの賢さではないだろうか。
自然から人間界に迷い込んだウイルスに対して、big-headで頭デッカチなロゴス優先の人間ならば根絶を図るだろう。しかし“small-head”な生き物・ヒトならば、“Acceptable Risk”(自然と共存する上で受け入れ得るリスク)を覚悟して自前の自然免疫や獲得免疫でウイルスと対峙する。
(4).オミクロン感染爆発が意味すること(集団免疫獲得とは)
―総論―
先ず(札医大データが示すように)感染の波と致死率の低減傾向から、『感染の波ごとに元々身体に宿る免疫・抗体力を更新しながら外部侵入者のコロナウイルスに対峙してきた日本人』だと私は受け止める。つまりオミクロン株は集団免疫獲得プロセスのほぼ最終章に登場してきたというのが個人的な見解である。
次に注意しなければならないことが数点あって、
・オミクロン株は絶対的な感染力と相対的弱毒性を持つこと
・死亡者数が増えているのは、死亡確認後の検査陽性判定者が多いこと
・致死率=死亡者数/感染者数なので分母の感染者数が極端に増えると致死率は下がっても死亡者数は多少増えること
要するに感染者数に着目する“局面危機管理”では、オミクロン株感染急増現象は格好のテーマになるだろうが、“国益重視のリスク管理”では全くと言っていいほど問題にならない。何故なら、『コロナ死亡者の年齢別構成比は、自然死のそれと全く変わらない』からである。
さらに少し乱暴な付言が許されるならば、『コロナウイルスは、インフルエンザ関連死亡者をほぼゼロ化して国民全体の死亡者総数を押し下げるということに貢献したウイルスである』と言っても過言ではあるまい。但し肝心なことは、人類が覚悟して受け入れざるを得ない“Acceptable Risk”の一つがパンデミックウイルス感染で、21世紀初頭に2度も遭遇したことを肝に銘じることである。加えて2度の合間に2011.3.11の東日本の大震災と言う悼むべき“Acceptable Risk”に一瞬にして見舞われたこと忘れてはならない。地震王国日本の“Acceptable Risk”である。
日本の超過死亡概念で集計されたコロナ死亡者数統計では、コロナが直接死因になるだけでなく、慢性疾患の患者の状態を悪化させ間接的な死因にもなるから、持病がある高齢者は特に(ブースター接種等で)感染予防に徹する必要がある。
要するに、繰り返して恐縮だが、感染増の波を即国家的一大危機だと捉えて、局面的な危機管理に走るのではなく、感染増の意味合いをよく理解して包括的リスク管理(国益棄損に重点を絞ったリスク管理)を図ることが大切なのである。過去5回の感染の波の度に対して自粛を繰り返したり、6波のオミクロン株感染者急増に即“まん延防止法”で対応していては国益を損ない続けるばかりである。
既に英国はオミクロン株感染急増を受けて、致死率との関連を見極めながら、行動制限解除の動きを取って日本と反対の行動に出ている。また過去2年間一度も“ロックアウト策”を取らなかったスウェーデンは、現在ヨーロッパで最低の累計死者数であることから分かるように、「ウイルス感染増と集団免疫獲得のメカニズム」を十分に予見した施策であったと私は高く評価している。
各国のコロナ対応とその成果には、各国それぞれが色々な背景(医療体制、経済事情、さらには高齢者の死生観…等々)があるだろうし、コロナウイルスはこれからも変異を繰り返しては感染の波を各国に起こすことだろう。ウイルスとはそんなもの(ウイルスの実態:ザインsein)だからである。実態(beザイン)がよく分かっていないのに、ウイルスへの対応(shouldゾルレン)を急ぐという拙速的対応が一番危険で、間違いだらけの対応に陥るのである。「ウイルスとはそんなもの(ウイルスのザイン)をもう少し深堀して、21世紀のゾルレンを提案したい。ウイルスに対しては、ザインを無視した“根絶の20世紀”と同じことを繰り返してはならない。
【(確かに第6波オミクロン株感染爆発によって累計死亡者数が20,000人を越したが、分母の感染者総数が過去最大の6波なので死亡者は増えるが致死率が上昇しているわけでない。感染力は強いが毒性は弱いオミクロン株であることに変わりわない。第4項「オミクロン株感染爆発の意味すること」で後述する)。】
(5).ウイルスの実態(ザイン.sein)
人間のウイルス対応(ゾルレン)の過誤はウイルスの実態(ザイン)を知ることで相当防げるのではないだろうか。本項では20世紀半ばごろ電子顕微鏡の開発で漸く人類が目にすることができたウイルスに関して私が知る限りの範囲でウイルスのザインを以下ご紹介したい。少なくとも政治家たちの「ウイルスに打ち勝つ」・「ゼロコロナ」・「感染を止める」…等の発言は、ウイルスのザインを知らないbig- head(自惚れ)な人間たちの「自然をコントロールできる」、「ウイルスを根絶できる」という間違った考えに由来するものだと思われるからである。
私が知ったウイルスの在り様(sein)として驚き且つ感動を持ってウイルスの存在を知ったことは、「ウイルスと人間は切っても切れない関係即ち“生態系”関係にある」と言うことである。生態系とは持ちつ持たれつ(give and take)の関係で、ヒトが地球に暮らしていくうえで必要不可欠な他の生物との関係である。
素人読者として山内一也著「ウイルスの意味論」や「破壊する創造者」(F.ライアン著)などは驚きの連続で大変示唆的なものであった。
抑々、20世紀の半ば頃電子顕微鏡の出現と同時に、漸く人間が目にすることができて100年も経っていないウイルスである。存在としての実感が極めて薄い。例えば、ウイルスの特徴の第一が、サイズもさることながら、宿主の細胞の代謝機構を借りて初めて生物として“活性化”するというから普段はモノと呼ぶに相応しい。外界にポツンと置かれたウイルスは全く増える(活性化という)ことが出来ない。何億年を経てシベリア凍土から発見されたりするという。
コロナウイルスの普段の宿主はコウモリで1万年以上静かに暮らしていたのが、ある日突然中国のどこかでヒトを宿主とさせられたのである。その後はグローバリズム化した人類を乗り物として得意の変異を繰り返しながら世界中で何度も感染の波(日本はオミクロン株で6回目だが)を起こしながら今日の惨状に至ったのである。免疫に恵まれていなかった欧米人は、感染数~重症/死亡に至る率(致死率)が極端に日本人より高かったから、感染自体は将来リスクを暗示するものであった。そこで免役を喚起させる適度な感染手段の一つとしてmRNA型ワクチンのブースター接種(再接種)を試みているのである。一方の日本人は『感染の波ごとに身体内の免疫・抗体力を更新しながら外部侵入者のコロナウイルスに対峙してきた。その成果が集団免疫である』として感染の意味が少々違うことは本稿の冒頭で述べた。
免疫があって他国より致死率・毒性が少ないのは札医大データが語っていることなので、先述したように免役に恵まれた日本人にとっては、抗原暴露の自然感染が免役強化(bursting immunity)の手段なのである。感染しないと免役は働き始めない。免疫に恵まれない欧米人はワクチンのブースター接種(再接種)に頼らざるを得ない。mRNA型ワクチンが自然免疫に劣る事実は論文で実証済みである。「人為は自然に如かず」である。
地球の歴史約42億年を1年と見なす“地球歴”を引用してウイルスの永い歴史や人類との関わりを述べた部分は感動的であった。則ち地球歴に拠れば、ウイルスが地球に出現した30億年前は凡そ5月頃に相当する。一方現生人類のホモサピエンス(賢い人間)が出現したのが20万年ほど前だから12月31日の最後の数秒である。ヒトの寿命たるやほんの瞬きにも相当しないことになる。つまりウイルス対人類と言っても、ウイルスから見た人類なんぞ取るに足らない存在なのだ。そのようなウイルスがヒトに来るように仕向けているのが人間、それも頭でっかちbig headな自惚れ人間が造った現代の「行き過ぎた脳化社会」だといえよう。哺乳類のコウモリを宿主として何万年も平和に暮らしていたコロナウイルスにしてみれば20世紀は正に緊急事態の連続であったといえる。経済優先のbig- header(自然界に対する自惚れ屋の頭でっかち人間)が、コウモリが棲む自然界に土足で踏み込んだ結果が今日のパンデミック感染症の発生経緯である。中国がWHOのCOVID-19の発生経緯の調査に極めて非協力的であることに遺憾の意を表する。人間に招き入れられたウイルスも災難であったろう。人間同士の距離感覚“social distance”が声高に叫ばれるが、元はと言えば人間が自然界に対して取るべき一定のdistance違反が事の始まりである。
私の推測だが、このコロナウイルス由来のパンデミック感染症が21世紀に入って2回連続して中国(2002年の広東省・2019年の湖北省武漢)で発生したことと、20世紀後半からの中国の経済急成長(=世界の工場化と一帯一路政策)とは無関係でなさそうだ。尤も欧米諸国も中国産工業製品、食品…の貿易交流で利を得たことも忘れてはならない。ウイルスも(不本意ながら)グローバリズムによる人流によって世界中に拡散した。
ウイルスのザインから探る21世紀の人類の在り方を考えるうえで大切な観点の一つがヒトの身体性との関わりである。つまりヒトの腸内細菌が100兆に及ぶことが既に分かっていて、サイズ的に1つの細菌にウイルスが10以上いることが考えられるので凡そ1,000兆のウイルスを身体に宿していることが明らかである。また我々の遺伝子(ヒトゲノム)の40%ほどはウイルスで構成されている事や(教科書にも未掲載の)PEG-10というウイルス由来の遺伝子が哺乳類の最大特徴である胎盤機能を作り上げたことも最近分かってきた。正にウイルスによって人類は進化を遂げた。
ダーウィンの垂直方向の進化論だけでは説明がつかないのが、ウイルスのお陰で水平方向に遺伝子情報が飛び交って人類の進化に多大な貢献を果たしていることを知れば、ウイルスは我々の身体と一体化して重要な身体機能(例えば免役機能)を保っているのである。ウイルスと“give and take”(持ちつ持たれつ)の生態系を作り上げて完全な共生関係にあることが分かる。
感染の波が襲うたびに、ウイルスは人類にとって一大宿敵であり、駆除するべきものと単純に考えるのは、「根絶の世紀」即ち二度の世界大戦とナチ虐殺を経験した20世紀の世界観の丸写しを感じるのは私だけではないだろう。
ウイルスの実態(sein)は、20世紀に抗生物で削除できた細菌類とは全く別物で、人類には撲滅できないモノであることを強調したい。
「ウイルスに打ち勝つ証にオリンピック開催」・「ゼロコロナ」・「感染を抑え込む」…等々枚挙に暇がない発言は、(気持ちは分かるが)ウイルスのザインを理解していないことから出てきた言葉であることに間違いないだろう。
(6).ヒトの「受け入れ得るリスク」(Acceptable Risk)について
ここまでに何度も先行して用いた“Acceptable Risk”についてもう少し説明を本項で加えることにする。
身体内に1,000兆という天文学的数字のウイルスと共に生きていることが分かれば、地球に暮らす人間は(随意にコントロールできない)ウイルス感染被害をまたいつの日か蒙るであろう。このような近未来に訪れる確実なリスクを人類が確り覚悟して地球に棲み続けることである。何故なら(3)で述べたウイルスのザイン(ウイルス不滅のザイン)でお分かりのように、ウイルス感染時の症状治療薬はロゴスの力で開発できても、直接働きかけて削除する薬剤の開発はロゴスの発展を以ってしてもまず無理だからである。人類が根絶できたウイルス感染症は天然痘と牛費の2つしかない。種痘ワクチンの徹底で有史以来人類を苦しめ続けた天然痘の歴史にピリオドが打たれたのである。
私はこのような自然から受け入れざるを得ないリスクを“Acceptable Risk”と称して、地球でウイルスと一緒に住む以上は覚悟をしておくことが必要である。ロゴスで何でも解決してきた“big headな人類”には肯んじえない“Acceptable Risk”の考え方だろう。自然の摂理を謙虚に受け止める“small headなヒト”ならば受け止め得るリスクとして覚悟が出来ようというものである。
同じ生き物としてウイルス感染がヒトを襲う事もあり得ると考えるのが“Acceptable Risk”の考え方である。
感染者数急増の渦中にあっては中々取り難いかもしれないが、国益(=国民の生命維持・社会/経済活動の総和)を重視して実行する責任は一国の首相にあるという考え方がリスク管理の基本的な考え方である。
つまり地震と同じく、自然の摂理として出たとこ勝負的なリスクといえるわけだが、傲慢とは反対の自然の摂理に対する“謙虚さ”をもつことが21世紀の人類だと思う。
もう一点我々とウイルスは、「敵対と共生の狭間」をたどりながらこの地球に棲んでいるのが現実(ザイン)であるが、ウイルス感染の根本的防止と言う観点でいえば、ウイルスのヒトへの感染自体を根本的に防ぐことである。
つまり先にふれたが、本来は哺乳類コウモリを宿主として平穏に暮らしていたコロナウイルスに、経済的ニーズを優先して一定距離(distance)を保てなかった人類の方から接触して感染拡大が拡がったと考えることである。「自然へのsocial distance keep」広くは「一人一人の地球環境保全行動」である。(営利企業のSDG’S活動には国際競争的や経済的関心が少なからず感じられるのは私だけではないだろう)。
なお余談であるが、“ウイルス干渉”に関して、100%ウイルスサイドに立って考えれば、非常にウイルス戦略に適ったウイルス同士の干渉作用だと私は思う。則ちウイルスとしては宿主のヒトが死んでしまえば自らも不活性化してしまうので、「後発ウイルスの方が感染力は強くても毒性が弱いことが、ウイルス拡散戦略に適っている」と考えたらウイルス干渉を理解しやすい。しかしながら感染の波ごとに致死率が低下するのは、人間サイドの“集団免疫獲得プロセス”に拠るもので、ウイルスとヒトのwin-win関係も第6波で終局に入った。ヒトが集団で免役を獲得することで、最終的にはヒトの勝ちである。ともかくコロナウイルスにしてみれば、コウモリを宿主に平穏に暮らしていたかったはずである。ウイルスを人界に引き込んだ犯人は正に経済優先big-headな人間たちである。
最初から100年に一度の危機としてPCR陽性者数の増減に一喜一憂する局面的な危機管理に陥った日本。21世紀は“Acceptable Risk”(=ウイルスとはそんなもの)を覚悟して国益重視つまり“リスクの公平原則”に則したリスク管理を指向することである。
(7).傲慢さ“big head”の出自
(7-1).機械論的世界観
実は17世紀に「機械論的世界観」という脳活動ロゴス(論理・言葉・科学…)の典型と言っていい思想が生まれたことを私は知らなかった。例えば
哲学者のベーコンが「自然の操作的支配」、デカルト「機械論的非人間化」‥と言い、
科学者のガリレイが「自然は数学で書かれた書物」、ニュートン「粒子論的機械論」‥(中村桂子氏の日本記者クラブでの講演より借用させていただくが)、超自然的現象の力の介在を否定する「機械論」に基づく世界観が17世紀を支配したのである。
さらに人間を精神と肉体機械と見るデカルト的二元論よりも機械論に徹底した生命感の『人間機械論』に突き進むのであるが、「人間が自然をコントロール或いは凌駕する」という主旨を色々な表現で述べている。18~19世紀の産業革命に繋がっていくのに基本的な考えとなって、産業革命を経て人間の生活(特に物質文明)に多大な利便性や効率性を齎したといえよう。
(7-2).20世紀とは
ところがこのようなロゴス(論理・科学技術…)の発達で人間には不可能なことはないとまで考えてしまうのもbig headな人間の意識である。あの大哲学者ベーコンでさえ「自然の操作的支配」と謳いだす。自分に都合がいい便利で効率的な社会を止め処なく追及することに抑制が効かない社会すなわち「行き過ぎた脳化社会」(養老孟子談)を築き上げてきた。意識(=脳活動)が“自分の利”に走りすぎた世紀が「根絶の20世紀」である。その結果は、2度の世界大戦とナチの台頭である。「機械論的世界観」は、400年後の20世紀には人間本来の倫理観をも平気で飛び越えて、“自利”に能わない相手を簡単に洗浄・根絶する動きを生んだ。つまり自分たちアーリア人だけが清浄民族でユダ人はじめ他民族は汚濁だと、この世を「清浄と汚濁に二分」しては機械論的世界観で大量虐殺を犯した。また第二次大戦後のbig headな人間は、ロゴスを駆使した核兵器を外交手段として東西(思想)問題、南北問題(経済)が続出した。
ロゴスの限界についてコロナウイルスは人類に無言の警鐘を鳴らしている。すなわち20世紀に開発した抗菌剤としての“抗・生物質”は直接細菌類を絶滅させることには一応成功したが、ウイルスを細菌類の如く絶滅する薬剤の開発は人類には不可能なことを21世紀の人類は知っておくことが必要だ。(症状を緩和治療する薬剤開発はこれからも期待したい)。
人類がウイルス由来パンデミック感染症に対峙できることは、先の(2)ウイルスの実態(ザイン)からAcceptable Riskを覚悟のうえヒトの免疫・抗体を集団で獲得するしかない。札医大のデータから「感染の波ごとに2年間を掛けて致死率がゼロに近づいている事実」と考え合わせればが、日本のオミクロン株対応が検査陽性者数に一喜一憂するこの2年間と大きく変わっていないことが残念でならない。一度もロックダウンに踏み切らなかったスウェーデンが、現在ヨーロッパで人口当たり死亡者数が一番少ない国で社会経済活動も完全に戻っている事が“集団免疫獲得”プロセスを順当に踏んできたことが分かる。無論感染の一つとしての免疫接種拡大には国を挙げて取り組んだことも免疫獲得に貢献した。逆に日本は随分遠回りしてきたことになる。つまるところワクチンブースター接種と自然への暴露(boosting immunity)の二通りしかない。後者の手段が安全性・有効性・継続性から前者を大きく上回ることは先にも述べた。
(7-2).21世紀のホモサピエンスの在り方
物質文明に頼る究極の先に見えるのがAI社会を代表とする“行き過ぎた脳化社会”ではないだろうか。big headな“人間”は、自然に謙虚なスタンスで従うsmall headな“ヒト”の部分を少しでも取り戻して「倫理なき機械論的世界観」から脱却するのが21世紀の課題である。撲滅の世紀から共生の世紀へ。「自然は人為に如かず」。ロゴス(科学技術)の限界を知って、自然の可能性を問う。
つまりmRNA型を短時間に作り上げた人間のロゴスの発展には敬意を表するが、自利に能わないウイルスだけを直接削除・撲滅することは人間には出来ないという厳然たる事実に謙虚に向き合うことである。それが身体内に1,000兆ものウイルスと共存(と言うより生態系を保つ共生)しているヒトと言うものである。自分の身体は、自分の意識(脳活動)で変えられない、自然そのものではないか。パンデミック感染症は人間の意識でコントロールできなかったではないか。
『ロゴスは自然に如かず』。私の結論である。
“ホモサピエンス”(ラテン語で“賢い人間”)の真の賢さは、big headなロゴスの発達に頼る人間ではなく、small headな自然を正しく恐れる賢さを備えたヒトのことである。
(6).まとめ
日本のコロナ対応について一話で“人災コロナ禍”の部分を、二話で“ウイルスと人間”をみてきた。二話を通して私の頭の中から常に離れなかったある示唆的な言葉があるので最後にまとめとして紹介させていただく。それは、17世紀の「機械論的世界観」がやがて産業革命に繋がっていく時代に、一種のアンチテーゼ(批判)的なスタンスを示した哲学・倫理学者のエマニエル・カント(1724~1804)の言葉である。
『ああ、いくら感嘆しても感嘆しきれないのは、天上の星の輝きと我が心の内なる道徳律』。
実は哲学をまともに学んだこともない私が、この言葉を初めて知ったのは井上靖の「天上の星の輝き」という随想を読んだ時で今から半世紀も前になる。井上同様にその箇所を岩波文庫の「実践理性批判」(波多野精一・宮本和吉訳)によって正確に補えば、
「それを考えること屡々にして且つ長ければ長いほど益々新たにして且つ増大してくる感嘆と崇敬とを持って心を充たすものが二つある。それは我が上なる星の輝く空と我が内なる道徳的法則とである」。
ニュートンの自然科学の影響を少なからず受けたE.カントは、当時の科学技術の進歩を横目に夜空を見上げて、「夜空の自然法則も心中の道徳法則も素晴らしい」とつぶやいた。もし彼が、30億年の歴史を持って自分の身体に宿る1,000兆ものウイルスの存在を知ったら、真ん中に人間の道徳律を据えて、夜空(極大)の世界と身体内のウイルス(極少)の世界に感嘆したことだろう…とは私の勝手な想像である。
大哲学者として人間の道徳律を求める彼が、ふと夜空を見上げて途轍もなく広大な宇宙世界には敵わないと感動する言葉に、私は徒に科学技術(ロゴス)を振り回すだけでなく、感染予防には怠りなくも、自然界の一生物“ヒト”として自分の持つ“免役機能”(≒道徳率)に軸足を置いて生き抜く勇気を与えてくれる。
何しろヒトの一生を地球歴の生物ヒトとして客観視すれば瞬きにも相当しないというが、道徳法則に従って生きる人間はこれからも永遠である。自然の法則に謙虚に従うsmall-headな大哲学者がカントである。
夜空の星の輝きと身体内のウイルスの存在に生きる感動を禁じえない。
【追記】
そういえば機械論的世界観が一世を風靡した17世紀仏の自然・哲学者パスカルが、『人間は考える葦である』と述べている。この言葉も、『人間は自然の中では矮小な生き物に過ぎないが、考えることによって宇宙を超える』といってカントに結びつく名言を残している。まるで“撲滅の20世紀”を予測懸念して21世紀の人類の在り方に大いなるヒントを投げかけているようだ。偉大な哲学者は永遠に人間の心の中に生き続けている。