(2). 一座建立の同窓会

僕は中学校の “附十四会(フトシカイ)”という同窓会(と言っても故郷長崎市にある付属中学校第十四回卒業生の関東支部)幹事を初回以来36年間務めさせてもらっている。世にいう“不惑.40歳 ”の時に始めたので、満76歳になる今年は本来ならば37回目となるところであったが、途中コロナ禍その他で4回ほど開催できず今年は第33回目を迎えることになる。
第1回目を提案してくれた相棒K君は、残念ながらコロナ渦中の2022年5月に心疾患で急逝した。人間の身体は自分の意識(=脳活動)通り動かない。人間は寿命の差はあるものの死亡率100%の自然の一部の生きものであることを今更の如く実感している。

コロナ禍が実質的に開けた去年(2023年秋)には、こんなこともあった。
例年桜が咲く4月頃に開催することにしていた “附十四会関東支部”であるが、去年ばかりは春4月を皆待ちきないで秋11月に臨時開催したのである。
その際、大船に住んでいるⅠ さんも同じ思いで、3年振りの第32回同窓会に喜んで駆け付けてきてくれたのであるが、その彼女が年明けの開催を待たたずして急逝してしまったことを聞いた時には残念でならなかった。
思い起こせばの話であるが、久々の去年は1次会では話し足りずに2次会を京浜電車に10分ほど揺られて辿り着いた場所に移動して、カラオケを歌って久し振りの邂逅の喜びに酔ったものだ。そして品川駅でJRに乗り換え三々五々に分かれて家路についた際のⅠさんが一生懸命手を皆に振っている姿が妙に脳裏に焼き付いている。同窓生が無くなっても不思議でもない年齢かもしれないが、彼女の場合はあまりにも早すぎるじゃないか!。
それにつけてもⅠさんは、損得勘定の少ない中学校時代の友達と久しぶりに会った思い出を胸にしまって天国に旅立ったと信じている。
来年までもう1年、元気に頑張れるように、皆が力を分けあえる中学生同窓会の “附十四会” となれるように、幹事を続けさせてもらっているのである。

さて表題の「一座建立」は、僕が若い頃から好きな言葉の一つである。
茶会はじめ一座のものが互いに心を合わせ、その気になって初めて建立するものがある。
ここでは同窓会に当てはめて話をすすめれば、附十四会を開催した時、同窓会という特定な空間の中に展開される中学時代の友人がお互いの健康を気遣いながら、「ひょっとしたらこれが最後になるかもしれない」、或いは友人が元気でいる姿を見て、「僕も頑張らなくちゃ、来年また来よう」‥という思いに捕らわれる『一座建立』の同窓会なのである。
しかも長崎弁丸出しで語りあえば、心の故郷長崎の地に60年ほどの時空を越えて自ずとタイムスリップできるのである。ドラえもんのノビタの気分とでも言えばいいだろうか。15歳で別れた卒業式では、よもや60年後にまさか東京の地でこのように中学校を共にした友人と再会できるとは夢にも思わなかった。
何しろ、小・中学時代の友人たちとは所謂 “損得勘定”がない。塾通いに縛られることなく、友人も含む自然に接する機会が実に沢山あった。自分の五感を通して感じた事は今でも強烈に残って、苦しい時に思い起こすことが多い。
脳ミソを使った授業(座学)で得た知識では得られない、身体性を伴った感覚を通して友人と一緒にインプットしたことの方が、後に社会人になってずっと役立つものだ。例えば、放課後10人ほどが集まって三角ベースのソフトボールでよく遊んだ。日が沈んで真っ暗になるまで気付かないでひたすら真剣に遊んだ。審判がいないのでルールでよく揉めたが、話し合いで決着をつけて翌日また集まってくる野球少年たちが沢山いた。とにかく身体を動かして野球を一緒にしたいのである。無論当時は「一座建立」なる言葉も意味も知らなかったが、見事に野球少年同士の「一座建立」が自然に出来あがって生涯忘れることができない。
これが、高校・大学・社会人‥となると、同窓生同士が受験や就職のライバルとならざるを得ない競争社会に放り込まれる。昨今は幼稚園から友人のはずの友が生涯の敵と化すこともある時代である。友達と一緒に遊びたい本人の意思は無視されて、親が希望する学校を目指す時代である。長崎の附属は小・中9年間で高校がないことも今思えば幸いだったのかもしれない。毎年1回、利害が絡まない「附十四会」が36年間も続くわけである。

さて、「ひとときの思索」の2回目は「一座建立」の話である。
一座建立は茶会や同窓会に限らない。もっと広く考えれば、「一座建立」によって創り上げられなければならないことは、この現実の生活の中にも沢山あるはずである。ただ現実生活においては、そのような一つの目的を持って、一座を形成することが結構難しいかもしれない。つまり「一座建立」をもって生み出されるものを拾い上げることもまた難しい時代なのかもしれない。その原因の一つとして極度に進んだSNS社会があげられよう。何しろSNSで初めて出会ったものが挙党を組んで強盗、殺人まで犯す時代だからである。
そもそも人間の頭(意識)は、一旦情報処理されたものを信じてしまいやすい。マスコミ報道やSNS情報に基づいて信じ込んだ脳ミソは、他人との壁(=バカの壁)を容易に作り上げてしまう。
一方自分の五感を伴ってインプットし、自分自身で「情報化」したもの(例えば中学校生活の体験を通した一人一人の思い出)に基づいて集うのが同窓会だろう。そのような動機に基づく同窓生が集う一座だから、そこでしか作れない、そして言葉にし難い感覚経験をすることができるのである。76歳になる中学校の同窓生が60年前にタイムスリップして、毎回新たな感覚体験をしたくなる。来年もまた元気に会いたくなるのである。それゆえ附十四会は36年間も続いているのだろう。

「一座建立」という言葉は、何となく馴染みにくい難しい内容を持った言葉のように聞こえる。自己宣伝になってはいけないが、「附十四会」のようにお互いが相手を尊敬し、思い出に心を合わせて何時間かの心が和む時間を共有しようという気持ちがあれば、自ずと同窓会に参加してよかったと感じて幸せな気分になって帰路に就くことができるのである。
そしてこのような「一座建立」の気持ちは、高校・大学のクラブ活動や、社会人がビジネスを離れた趣味の集まりを造るように沢山あるだろう。そこで大切なことは、他人を尊敬する気持ちである。己と他人を比較することなく純粋に遊ぶことである。