はじめに
私が養老孟司著「バカの壁」を読んだのは5年ほど前の70歳ころである。400万部以上売れたという噂だけで、あまり本を読まなくなった僕が手に取ってみたのである。正直申し上げてその時の僕には難しくて、これが400万部以上売れたこと自体が信じられなかった。多分キャッチーなタイトル(売らんかなの新潮社の編集者だったそうだが…)のお陰だろうと拝察した。
しかしその本のベースが彼の「唯脳論」にあることに気付いた私は、「唯脳論」を時間を掛けて読んでみたら、そこに頭脳明晰且つ論理思考得意な養老孟司がいたのである。さらに「バカの壁」を理解してさらに行動に反映できるようになるためには、その原著にあたる「唯脳論」をじっくり読まなければならないことが分かった次第である。所謂「知行合一」が最終目標であることは読書の大原則である。座学による頭でっかちになっても、知識が鼻に付くだけである。しかっり自分の身に付けるには、体験を通して自分の脳にインプットしなければならない。
先に言わせてもらえば、彼の説明は正直言って下手である。高いIQを有する学生が多い東大での講義ではまだいいだろうが、平均的な日本人(勿論私も含む)にとっては、理解するにはかなりの時間と労力が必要である。そうすれば、彼が稀代の哲学者でもあることに気付くにはそれほど時間はかからない。
本章のタイトルである「養老的世界観」について、少々説明が必要だろう。
“世界観”に関しては。大森荘蔵氏の定義が適切だろう。科学における哲学的問題の検証を目指した大森は、左脳的思考が主となる科学分野と右脳的思考の哲学分野の中庸点を探索し続けた人物である。その大森が述べている世界観とは、
『元来世界観というものは単なる学問的認識ではない。学問的認識を含んでの全生活的なものである。自然をどう見るかにとどまらず、人間生活をどう見るか、そしてどう生活し行動するかを含んでワンセットになっているものである。そこには宗教、道徳、政治、商売、性、教育四方、儀式、習俗、スポーツ‥と人間生活のあらゆる面が含まれている』
と述べている。
解剖学者であると同時に哲学者の養老孟司は、「生きている人間は毎日変わる。変わらない人間として死体を扱う解剖学者の道道を選んだと自ら言っている。変わる人間を捉えるのは、キャッチアイを持つ他の動物ならともかく、人間の脳には出来ないからである。人間以外の動物は変化するものをカメラ・アイで捉えて脳に叩き込む。犬や猫が大勢の人間の前で後ずさりするのは、違った格好の一人一人が違った存在として捉えているので犬は吠えるし、猫はその場から逃げるのである。彼らには、人間という言葉立てで概念化が出来ない。その代わりに、感覚(視覚・聴覚・臭覚‥)が人間より数十段も勝っている。神経衰弱を猿と勝負をしたら人間は必ず負ける。
一方人間は自らが発明した言葉で同じ化(=概念化)して事象を捉える。(例えば、赤いのも青いのもリンゴとして同じ化して、リンゴも桃も果物、果物も野菜もお肉も食べ物‥…というように言葉で上位レベルに概念化していく。しかしこのプロセスで多くの付帯情報放棄している。つまりリンゴと概念化した段階で、色だけでなく味覚も手触りその他の身体性を伴う感覚情報が削除されている。削除するかしないかは「役に立つか否か」で判断する人間の脳はモノを固定化/情報処理することが得意にできている。
その究極が、0と1の二進法のアルゴリズムで変化する人間を情報処理化したモノがIT技術である。例えばマイナンバーや病院の検査値が記されたカルテは、役所や病院では情報処理化された人間を扱った方が効率的に楽なのである。現代社会で一番問題なのは「変化する生身の人間と情報処理された自分の社会的な折り合いの付け方」であろう。段々生身の自分が少なくなっていっているのがIT技術が発達した21世紀。意識の世界が感覚の世界を浸潤し続けている。生身の人間は一体どこへ行ったのだろうか?養老は「あーすればこうなる」という意識(=脳活動)で構築したのが都市だと看破した。目にするもの手にするものみんな人間の意識で構築された都市での生活である。つまり脳化社会=都市社会=意識化社会であることに気付く。
英語圏では「an appleとthe apple」で言葉の同一概念化で失われる情報を補足した。(異論も大いにあるが)言葉による同じ化の究極にあるのが一神教だと養老は言う。確かにヨハネによる新約聖書も「はじめに言葉ありき」で始まる。一方、一つ一つは別物として言葉で同じ化(=概念化)することなく、モノ毎に神が宿るとするのが「多神教」である。すべてのモノの中に魂が宿っているとするアニミズム(アニマ:霊魂を意味する)はその典型的な例である。
文化人類学、哲学、教育など幅広い分野においても独自の見解を展開している著名な学者の養老孟司の考え方を、生身の私自身で取り込む作業は「ソフィアの昼休み」の大きな柱の一つである。頭が切れる彼の主張や思想を短い言葉でまとめるのは困難、否不可能である。なぜならば彼自身も、未だ未解明の分野が大きい脳科学をベースにして、彼独自の哲学的分野の思想が加わるから一層難解であることは当然のことであろう。Youtubeはじめ講演会、対談‥などで、相手がほとんど理解していないことを養老が意識している姿をよく見かける。400万部以上売れた「バカの壁」の社会的効果をを発したとは私には考えられない。少々厳しく申し上げれば、現代の知の巨人と称えられる養老であるが、『教養とは相手の心が分かること』を身に付けて頂きたい。彼が拡げた大きな風呂敷の上に色々なものが載っている。以下にいくつかの重要なポイントを挙げ、大きな風呂敷の上に載っている彼の考え方を一緒に解明しようではありませんか?題して「養老的世界観」である。
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また「養老的」としたのは、養老孟司氏が物理学から哲学に転向し、科学における哲学的問題の検証を目指した。養老孟司が独自に人間生活をどう見るか、そしてどう生活し行動するかという、正に大森が言う世界観に則して脳科学のみならず哲学的な風呂敷を拡げている。ソフィアの昼休みで、養老の世界観を読者と一緒に考える意義は十分すぎるほどある。
つまり多くの本や講演その他で独自の展開をしているが、なにぶん「養老ワールド」が難解であることは否めないので、私の視点で彼の主張をレビューするのも悪くないだろう。養老の拡げた風呂敷が広いということは、大森同様に、科学者と同時に哲学者でもある養老孟司の広範な世界観は書籍その他で実に雄弁に語られているが、残念ながら我々には、彼の警鐘に対物理学から哲学に転向し、科学における哲学的問題の検証を目指した。
しては鈍感なのである。焦点が絞りにくいのは、頭が切れる彼の論調にも原因しているかと思う。
物理学から哲学に転向し、科学における哲学的問題の検証を目指した。