(2).Awe(畏怖)体験(承)

『一番身近な自然が自分の身体であること』を前提にして、本題の「Awe体験」に戻ろう。
(それにつけても、「Awe体験」の話を進めるにあたり、「感覚と意識の違い」、および「人類の進歩と進化の違い」に関して補足説明を先に加えておくのが、Awe体験の理解が深まるかと思ったが、ご存じの方も多いはずなので、最後に簡単に記すにとどめる。ご参照程度に最後読んでいただければ有難い)。
さて前節で述べたように、人間は自分の身体を意識(脳)のアンダーコントロール下に置けないことから分かるように、「身体=自然」である以上、人間が自然との接触を本能的に必要とするのは当然のことである。しかしながら産業革命以降の400年間,

我々人類が能率的且つ快適な脳化社会(=都市社会)に飼い慣らされてきたのである。その都市化が進むということは、自然を排除するということに繋がる。つまり脳で考えたものを具体的に形にしたものが都市だから、自然はその反対側に位置づけられた人間脳では本来手が負えない世界なのである。なのにbig-headは、そのように考えないで、人間も含む自然までもコントロール下に置こうとする。それが戦争あるいは近辺に絶えない “イジメ”である。
人間の限られた100年弱の寿命を全うするうえで、半分は自然がないと元々生きて行けない存在、それが人間(ホモサピエンス)なのではないだろうか。快適な都市に住む人は、人間関係という実は大変な無理をしながら日々を生きておりその結果(自然をコントロールしようとする)人ほど寿命も短い。
しかるに現実世界においては、物心ついたご幼少時から塾に通わされ受験戦争を潜り抜けて社会人になっても、感覚を通して自然から学ぶことから遊離して大人になった人間は、意識の頭の中だけの世界を生きようと試みてもそれは不可能なことであることに気付かないでもがき苦しんで死んでいく。あるいは常に何かが欠けていると感じるストレスに満ちた人生とならざるを得ないのではないだろうか。
人間の自利的な意識世界(=あーすればこうなると考えて行動する世界すなわち “脳化社会/都市化社会” )で他人と生存競争して暮らすには(私も含めた団塊世代以下の三代を通して)随分無理して生きてきたものである。養老はその脳化社会が日本に限らず世界中に浸潤し続けて、まっとうな人間としていきるうえで限界にきているのが21世紀の今日であると警告を鳴らす。私も全く同感である。
脳化社会に生きるホモサピエンスは、自分にとって不必要な相手を削除して生き抜く手段(=戦争・ホロコースト・殺人・イジメ‥等々枚挙に暇がない)を駆使してきた。身体性を持った感覚から情報を持ち合わせないで、意識の世界だけで生きようとしても、文明の衝突を生じるだけである。そこには自分の意図が通じ合わない「バカの壁」を勝手に築き合っていても社会生活を営む人間の進化はどこにも見当たらない。
(例えば20世紀には殆どの細菌による感染症を、“抗・生物質(anti-biotics)”の開発で対応したが、残念ながら一旦感染したウイルスだけを削除することは未来永劫不可能で、ワクチン開発でウイルスとの共生の道を選んで感染拡大を防いだ。一旦体内に入ったウイルスは人類には削除できないからだ。それに反してゼロ・コロナに走った中国政府意識はは経済的にも国家的大打撃を蒙った。自然、ウイルスそして人間をコントロール下に置こうとて、いつかは無理がきて破綻するに決まっている。)
自然から遊離した生活は本来考えられないのに自利を求め続ける。人間の意識(=脳)が自然までコントロールしようとする流れに対して、より大きな危機感をぬぐえないでいる。つまり人間の脳が持つ自然に対する傲慢さ(big-headed)で創り上げてきたSNS社会が孕む危機についてもう一度冷静に考え直すべき時代を迎えた。

この様な思いを抱いて、自分には敵わない圧倒的な大自然に接す時に生じる自分の感覚とは如何なものかを求めて、札幌から12時間以上も掛けて「紋別の流氷」を体感したのが私の所謂「オウ体験」である。オウ体験は何も流氷体験に限らない。圧倒的な大自然である地球を上空から観る宇宙飛行士とて典型的なオウ体験といえよう。宇宙飛行士が宇宙空間に青い姿でポカリと宇宙空間に浮かぶ地球を見て、すべからく「なんと美しい!この青い地球に我々は生かされている。地球環境を大切にしよう!!‥」と述べていることが、Awe体験を何よりも物語っているといえよう。
ビルに囲まれた都市生活では、上記で定義する自然(人間の力が及ばない世界)からどんどん遠ざかっていることさえ気づかない。意識で創り上げた情報はあっても、感覚で仕入れた情報がないからである。
神宮外苑の開発問題が俎上に上がるのも、少しでも緑地を残そうとする人間の基本的願望としてよく理解できるのであるが、人間の脳(意識)が意図的に作り上げた人口の自然と本物の自然(感覚で得た情報)の違いを無視して喧々諤々、脳化社会の論争に過ぎないようである。私の見解は、「緑が増えるならそれでいい」程度である。
ここでは、畏怖の念をもたらす、あるいは危険さえ感じるほどの圧倒的な大自然を目の前にした時のことについて最後に触れたい。人知の及ばない大自然に触れる畏怖(=Awe)体験であるが、要は人間の小ささや限界を知らされてヒトは人はみな自然に対して謙虚になれることである。傲慢になっても自分の意思が通用しない時は、相手をリスペクトする気持ちが生まれる。そして自利よりも利他に叶う行動に駆られるのである。
元旦に起こった大自然現象の一つである能登半島地震であるが、阪神淡路・東日本に続いて、人知が及ばない自然現象の大地震に見舞われた。畏怖の念を持って地震を受け止め共生していくしかないのである。そして地震で被災された地域と人々に対して、全国から利他の念を持って復旧・復興に努める姿を沢山拝見した。何もできない私は応援するしかない。地震を通して人間性に溢れた絆が生まれているニュースに感動を禁じ得ない。
400年間人類が、都市化された世界に住み、「あーすればこうなる」と意識が先行して作り上げた「脳化社会」では、人間が自利的行動に駆られ傲慢になっていることにさえ気付かない。このことは、脳化社会/都市化社会における人類が見事に嵌っている落とし穴のようである。
『言葉の発見や貨幣の発明或いはAI技術の開発は、脳活動による意識の具現化として人類に多大な進歩をもたらした。しかしながら、感覚に依って築き上げられた「自然に対して感謝と畏敬の念を持つこと」とは、人類の元々の姿に戻っているように思える。機械論的世界観から人間を自然の一部と見做す生命論的世界観へのパラダイムシフトは、私には「生命のルネッサンス」に思えてならない。意識・脳のヒトは傲慢の延長の上に戦争を起こすのであるが、人知の及ばない大自然に接した時には以下のような感覚を取り戻すことができると考えている。
言葉(脳活動)による認識では尽くしがたいことを承知で、実際に「Awe体験」を通して私が感覚で感じた自然に対する「感謝と畏敬の念」を以下に纏める。冒頭の動画の方がまだ伝わるかもしれないが・・

自然への感謝と尊敬(人間は感謝をすれば何かで報いたい生きもの)
自然の力と美に対する感謝と尊敬が生まれる。私たちは生命を紡ぐうえで、自然から食物、酸素、水など生命を維持する必要不可欠なものを得ている。それを認識することで自然を尊び、保護しようという意識が生まれた。「自然に生まれ自然に還る」というのは真言である。
自然への謙虚さ(自利より利他的行動をとるのは人間だけ)
人間の力が微々たるものであるという認識を深め、謙虚さを感じることがある。これは自己中心的な思考を捨て、広い視野を持つきっかけとなる場合が多い。2024年元旦の能登地震の被災者支援が一つの例である。人間は自然の一部であるというのは、「生命論的世界観」の根幹をなす。
自然保護の意識(地球が沸騰化したのは人災)
圧倒的な自然の力とその一方で実に繊細さを目の当たりにし、環境問題への認識や自然保護の意識も芽生えるというものだ。
自然への称賛(人間だけにある芸術的表現のエネルギー)
自然の美しさに感動し、それが芸術や創作活動のインスピレーションとなることが大いにあることは、自然への感動をモチーフにした沢山のクラシック音楽(ベートーベン、マーラー、リヒャルトシュトラウス‥枚挙に暇がない)を生んだといえる。

為政者に「花鳥風月を愛でよ」とまではいわないが、ホモサピエンスの人生の半分は自然の世界がないといけないと、オウ体験をした私は痛感している。