ところで“自然”は我々のごく身近にある。といっても近所の公園のことではない。生物学者の福岡伸一氏は言う、「我々の最も近くにある自然とは自分の身体である」と。(2020.6/17.朝日新聞)
生命としての身体は、自分自身の所有物に見えて、決してこれを自らのコントロール下に置くことはできない。人間は、いつ生まれ、どこで病を得、どのように死ぬか、知ることも選(え)り好みすることもできない。しかし、普段、都市の中にいる私たちはすっかりそのことを忘れて、計画どおりに、規則正しく、効率よく、予定にしたがって、成果を上げ、どこまでも自らの意志で生きているように思い込んでいる。
人生の学びが足りない若者たちにこの思い込みが激しい。よく若者が自分の命は自分のものであるから自殺するのも勝手だろう‥という誤った論理根拠とするから恐ろしい。人間の脳(=意識活動)は、自分の身体も自分の所有物だとすることに簡単に流れてしまうのも、人間の脳だけに観られる誤った思い込みである。福岡伸一の朝日新聞への寄稿の言葉を借用すると‥
「ここに本来の自然と、脳が作り出した自然の本質的な対立がある。前者をギリシャ語でいうピュシス、後者をロゴスと呼ぶが、ロゴスとは言葉や論理のことである。生命はピュシスの中にある。人間以外の生物はみな、約束も契約もせず、自由に、気まぐれに、ただ一回のまったき生を生き、ときが来れば去る。ピュシスとしての生命をロゴスで決定することはできない。人間の生命も全く同じはずである」
それを悟ったホモ・サピエンス(賢い人間)の脳はどうしたか。計画や規則によって、つまりアルゴリズム的なロゴスによって制御できないものを恐れるのが正しかろう。それでも自然をコントロールせんとする脳(big-head)は間違いというよりも傲慢というものである。自然をリスペクトして正しく畏れるのが、真のホモサピエンスたる所以ではないだろうか。
人間が制御できないもの、それは、ピュシスの本体、つまり生と死、性、生殖、病、老い、狂気、地震などの天災……。これらを見て見ぬふりをするのでなく、正しく畏れることである。隠蔽(いんぺい)し、タブーに押し込めて戦争をする愚か者に成り下がったようだ。
しかし、どんなに精巧で、稠密(ちゅうみつ)なロゴスの檻(おり)に閉じ込めたとしても、ピュシスは必ずその網目を通り抜けて漏れ出してくる。溢(あふ)れ出したピュシスは視界の向こうから襲ってくるのではない。私たちの内部にその姿を現す。そんなピュシスの顕(あらわ)れを、不意打ちに近いかたちで、我々の目前に見せてくれたのが、今回のウイルス禍ではなかったか。ウイルスは無から生じたものではなく、もとからずっとあったものだ。絶えず変化しつつ生命体と生命体のあいだをあまねく行き来してきた。ウイルスの球形の殻は、宿主の細胞膜を借りて作られる。ウイルスも生命の環(わ)の一員であり、ピュシスを綾(あや)なすピースのひとつである。ウイルスが伝えようとしていることはシンプルである。医療は結局、自ら助かる者を助けているということ、今は助かった者でもいつか必ず死ぬということ、それでもなお、我々がその多様性を種の内部に包摂する限りにおいて、誰かがその生を次世代に届けうるということである。
繰り返すが我々の身体(=自然の一部としての存在するもの)を、自らの意思のアンダー・コントロールに置こうとするのは人間の傲慢さに過ぎない。それは自身の動的な生命を、つまりもっとも端的なピュシスを、決定的に損なってしまうことにつながる。かくいう本稿もロゴスで書かれているという限界を自戒しつつ、レジスタンス・イズ・フュータル(無駄な抵抗はやめよ)といおう。私たちはつねにピュシスに完全包囲されているのだ。
私たちは意識的に心臓の鼓動を制御したり、髪の毛の成長を止めたりすることはできないことでわかるように、人間の身体は自然の中の一部に過ぎない。これらは自然の力によって制御されており、私たち人間が身体を任意にコントロールすることは極めて限定的である。それはまた、私たちが生物として生きている証でもあります。生命や自然は予測不可能で不確定性を含みつつ、その中に秩序やリズムを見出すことができます。その独特のバランスは、私たちが自然の一部として存在している証であり、自然自体の偉大さと謎を物語っているではないか。
このように産業革命以来凡そ400年、「機械論的世界観」の落とし穴に嵌っていた我々人類が、漸く「生命論的世界観」にパラダイムシフトしようとしている。そこでは、人間の身体は自然の一部と考えて、この地球上の70億分の一のまったき生命を燃焼し尽くして、やがて自然に還っていくように、自然に生かされているのが人間の命であると考えられなくもない。気分が楽になってストレス・フリーな気分になれるというものである。
ホモサピエンスの生活は、元々自然と接触する機会がないとやっていけなかったのである。それが脳化社会/都市社会の浸潤と共に、人間関係次第で幸せにも不幸な気分にもなるようになったのである。イジメはじめ人間の意識(脳活動)に満ち満ちた人間界に煩わされた時にこそ、人知の及ばない「自然界」に逃げるのが適切な選択かもしれない。無責任なことは言えないが、IT社会に暮らすうえでは、多くを望まなければであるが、遠隔勤務で生活の糧を稼げることがコロナ禍でよく分かった。AI秘書の力を借りればなおさらではないだろうか‥
私は脳化社会/都市化が浸潤し続けて、戦争が増える社会に強い危機感を持っている。その原因が、自然との距離が大きくなったことにあると思う。そして「自然に対して感謝と畏敬の念が無くなってきている。一番身近な自然である人間の身体をお互いに傷つけ殺し合う戦争に反対するものである。機械論的世界観の下で戦争を繰り返す人類は愚かである。生命論的世界観の下で、人間が自然の一部で、まったき命を一所懸命に生き抜く姿にこそお互いがリスペクトしあって生きる。生命論的世界観とは、そのような人間の姿を一番大切だとする世界観である。
結局、人間は自然の一部として展開される「生命論的世界観」をこれまでの「機械論的世界観」にパラダイムシフトいく中で、生物学者の福岡伸一氏は、「動的平衡」として科学的に側面支援している。動的平衡とは、「絶え間なく動き、入れ替わりながらも全体として“恒常性”が保たれていること」と述べている。
✖︎要するに、自然とは意識でコントロール出来ないもの即ち自分自身の身体も含むものであることから、自利を貫く行為である戦争も、自らの生命を断つ自殺も自然の摂理に従えば、認められるものではない。もっとお互いに自然の一部として尊重と敬意を持つことが重要である✖︎