(04).言葉の発明

他の動物と違って人間の脳だけが持つ能力で造られたものに「言葉とお金」がある。最初に言葉について思索してみよう。
脳科学者の養老は、人間の脳にはリンゴもミカンも同じ果物だとして物事を言葉で「同じ化」する能力を持っているという。つまり様々な情報や刺激を処理し、その情報を整理・分類して理解する能力を持っている。脳ミソのこの能力は、抽象化と一般化の過程を通じて成り立っており、言葉や概念を使って、似たものを同じグループにまとめ、異なるものを区別することができることになる。
もう少し具体的に言えば、異なる種類の果物を見て、それらが共通する特徴を抽出し、それを「果物」という一般的な概念に結びつける。これにより、異なる果物を個別に覚える必要がなくなり、一般的なカテゴリーで捉えることができる。このような一般化の過程は、認知の効率を高めるために重要である。なぜならば、人間の脳は膨大な量の情報を処理する必要があるなかで、すべての情報を個別に処理することは現実の問題として非常に困難である。そのため、一般化によって情報をまとめ、整理することで、脳の処理負荷を軽減し、情報の取り扱いを効率化するのである。その典型が、0と1の2進法のアルゴリズムで成り立っているITがそのいい例である。
(コンピュータープログラムの基礎は通常、2進数(またはバイナリ)で成り立っており、コンピューターの中で情報を表現するために、2つの状態(通常は0と1)を使用する。この方式は、コンピューターの内部の電子回路によって実装され、計算やデータ処理を可能ならしめる)
つまり人間の脳は一般化というプロセスを通じて、異なるものを同じと見なし(=同じ化)、それらを一般的な概念やカテゴリーに結びつける能力を持っておりその成果が言葉なのだろう。たとえば、「リンゴもミカンも果物」という言葉は、果物の共通点を強調する一方で、それぞれの果物の個別の特徴や違い(甘い、酸っぱい、歯ざわり‥)を無視している。したがって、意識による一般化は情報の欠落や損失を伴うことに気付くことが大変重要である。
人間も含む動物は、意識と同時に感覚で情報を脳ミソにインプットする。動物の方が感覚が優れているが、人間だけが異常に発達した意識(理屈・ロゴス・IT技術‥など)で情報を処理できる。
ところが情報の処理を効率化し、認知の負荷を軽減する一方で、同時に個別の情報の詳細を失うというリスクを負うのである。つまり感覚でなく、「同じ化・概念化」に任せて情報処理すれば、必ず個別の情報の詳細を失うことからくるリスクとしてする過程で、個別の情報の詳細を失うことによって人間はどのようなリスクを負うか考えておくべきだ。
人間の脳の特質である「同じ化・概念化」に任せて情報処理すれば、必ず個別の情報の詳細を失うことになることからくるリスクとしては下記4点にまとめられよう。
(なお人間の情報化に関しては本ブログの、「21世紀の人間の在り方の (2)感覚 ⇄ 意識 ⇄ 行動」を読んでいただきたいが、養老孟司氏自ら陳述しているように、脳や意識の仕組みは現代或いは未来科学でも明らかにできない深遠な分野であることをお断りしておきたい)

  1. 誤った判断や決定のリスク: 個別の情報の詳細を失うことで、実際には異なる状況や事柄が同じカテゴリーに一般化される可能性がある。例えば、特定の人々や事物を一般的なカテゴリーに結びつける際に、重要な差異や個別の特性が無視されることで、誤った判断や決定が下されるリスクが考えられる。
  2. 先入観や偏見の強化: 一般化によって、特定のカテゴリーや概念に関する先入観や偏見が強化される可能性がある。つまり個別の情報の詳細が失われることで、カテゴリー全体に対する判断が不正確になり、個々の要素や個人の多様性が見落とされることが多々あるだろう。
  3. 問題解決能力の低下: 個別の情報の詳細が失われると、問題解決能力が低下する可能性もある。つまり特定の事例や状況における重要な特性や要因が見過ごされることで、解決策の発見や適用において効果的なアプローチが妨げられるためである。
  4. コミュニケーションの誤解: 個別の情報の詳細が失われると、コミュニケーションにおいて多くの誤解が生じる。特定の文脈や状況における詳細が欠落することで、意図が正しく伝わらず、誤解や不適切な反応が引き起こされるのである。

これらのリスクは、人間の脳が持つ一般化(=同じ化)が持つ利点とバランスを取る必要がある。IT技術の進歩の恩恵として、情報処理の効率化や認知負荷の軽減といった利点を享受する一方で、個別の情報の詳細を失うことによるリスクを最小限に抑えるために、注意深い思考と柔軟な認知アプローチが必要なのである。
自然界には言葉では説明できないことがたくさんありますから。頭で考えるのではなく、体で感じなければわからないことがいっぱいある。それを知れば、世界はぐんと広がります。特に都市に暮らすが故の煩わしさ(いじめ・会社の人間関係・漠とした不安・・等)は枚挙に暇がないが、自然の中に我が身を擱けば、つまるところ自分自身で世界を狭くしていることが沢山あることに気がつく。
思えば人間関係、国家間の関係も、言葉による同じ化(一般概念化)で効率的に処理する傾向が強まっている。これは一言で言えば、脳化社会(=都市化)が強まれば強まるほど、「あーすればこうなる」という思いがぶつかり合って、簡単に人を殺したり戦争を起こしているのが21世紀の人類だといえよう。大事なのは〝意識〟を休ませて〝感覚〟をフル活動させてみること。意味のあるもの、ないものが混在する自然に触れないと、人間どこかが歪んでくるのである。

今の人たちは何でもかんでもすぐに言葉による答えを欲しがりますが、違和感を持ち続けるってことが大事なんです。必ずしも答えはすぐには出ないことを受け入れる。だから、おかしいなと思ったら、ずっとおかしいなと思っているしかない。いつか答えが自然から得られることもある。
「あーすればこうなる」という脳化社会や都市化さらにはSNSが強まる中で情報処理に溺れることなく、自分自身の身体性を伴う感覚を通して得た(自分だけの)情報をしっかり頭に刷り込むことである。具体的には身体を動かすスポーツに興じたり、人知の及ばない自然環境の中に我が身を置くこともいいだろう。さすれば、自ずと「自然の恵みに感謝をして、自然に対する畏敬の念を持つことができる」と思う。座学(旅行のガイドブックを読むことで知る)より、実体験(実際にその地を訪れること)から得られる情報を確り身に付けて人生を歩むことである。「話せばわかる」はウソ、「大切なことは言葉にならない」は真言である。自然界には意識では得られない感覚でしか得られないことだらけである。

(補説)
養老孟司は、このように「同じ」にするとは、抽象化していくことで、より抽象度が高くなることで最後は1つになると説く。どんなにたくさんあっても、「同じ」を使っていくと最終的に1つにできると主張する。
そして宇宙の万物まで含めて「同じ」を繰り返していくと、最後の最後に出てくるのが、すべてを統合する神様、すなわち一神教だ。つまり「同じ」を繰り返すことで一神教という概念が生まれるという。
それに対し「違う」を認めるのが、八百万(やおよろず)の神だ。こちらは神様が無限に存在し、一神教とは真逆である。今や世界の7割が一神教ですが、都市に住みたがるようになった人間が一神教を信仰することはごく自然な流れで、それは都市も一神教も、〝意識〟がつくったものだからという。
筆者は、意識でも感覚でもない、(無論言葉では説明し難いが)「精神」の世界がありそうだ。
環境(enviroment)・肉体(body)・心(mind)・精神(spirit)・魂(soul)・・わからないことだらけである。