僕はクラシック音楽を聴くことが大好きだ。特にピアノ演奏には心が和むだけでなく、生きる力を与えてくれることが少なからずあるものだ。例えばバッハやベートーベンそしてショパン等の偉大さを、ピアノ演奏を通して現代に読みが得させてくれるのがピアニストである。そして数多のピアニストの中でも演奏技術だけでなく人間性にも敬愛の念を禁じ得ない現代の演奏家何人かいるものだ。その一人がMauritio Polliniである。
イタリア出身のピアニスト、マウリツィオ・ポリーニが、2024年3月23日に亡くなった。82歳(イタリア人男性平均)である。ここ数年は健康状態が悪く、世界主要都市での公演をキャンセルすることが相次いでいたと聞いていたので、正直なところ訃報が何時入ってもおかしくないという覚悟は出来ていたつもりだったが、いざ訃報を聞いた時には残念でたまらなかった。
手元のバッハの「平均律」とベートーベンの「ソナタ集」(悲壮・月光・熱情・後期の3曲‥)などを終日流して喪に服した。
元々ドライブしながらバッハを聴いている。バッハの音楽が高齢者の安全運転のために最適であることを個人的に信じているのは、嬉しい時も悲しい時も、そして(老人特有の)イライラしている時にも、折々の私の精神状態を選ぶことなくバッハは何時も受け入れてくれるからである。これからもバッハを聴きながら安全運転を心掛けて未知の地を訪ねたい。
そのバッハのピアノ曲をあれほど音楽的に謳う演奏はポリーニが最高だろう。(S.リヒテルやG.グールドよりも、イタリア人特有のカンタービレがそこにはある。時に声を発してソルフェージュしていることも僕には決して耳障りではない。単純に聞こえるあのバッハとて一緒に謳えることを発見した。
またベートーベンに関していえることは、悲壮・月光・熱情‥等の若い頃作曲したソナタも悪くはないが、75歳の私には「後期3大ソナタ.No-30.31.32.」が取りわけ秀逸である。死を意識した晩年のベートーベン自身の苦悩を、ポリーニが現代に生きる我々に再現してくれるのは、彼自身が自らの晩年の死生観を演奏に込めているからだろう。一言で言えば、バッハは宗教的に、ベートーベンは人間的に自分の“死”を見つめて作曲したのだろう。
ところで晩年のポリーニの姿、取り分け顔付きが、私には実にいいのである。外出して帰宅した時に、玄関の壁に飾ってあるポートレート(グラモフォン社のカレンダーの1ページを切り取って特製の額に入れたもの)を見ただけで、音楽が鳴ってくるから堪らない。人間年輪を重ねないと出てこない表情といううものがある。「男の晩年の顔はその人の人生の履歴書である」とはよく言ったものだ。つまり人間は、年齢を重ねて初めて年齢相応の良さが出てくるものだ。
ポリーニは18歳で審査委員の満場一致でショパンコンクール優勝者としての栄冠を勝ち取るが、歴代の優勝者たち(それとて4年に1人のショパン弾きとしての凄い才能の持ち主ばかりであることは言わずもがなのことである)が、直ぐ演奏活動に入るところであるが、ポリーニは8年間の自己研鑽の時間を擱いて世間から沈黙を保った。ピアニストとして自己表現したいのはショパンだけでない、ベートーベンやバッハ等の過去の偉大な作曲者が彼の頭の中に詰まっていたのだろう。そうして空白(彼にとっては自己研鑽の時期だったと想像する)の8年後はショパンのエチュード(1972)と前奏曲集(1974)で完璧な演奏技術を先ず披露したあと、演目を拡げて続々と演奏会とCDアルバムを世界に発し続けたのである。私事であるが、デビュー当時の「レコード芸術」誌がポリーニのキャッチフレーズを応募したことがあった。月並みだが「時空を超えた完璧の世界」という言葉しか思い浮かばなかった私のキャッチフレーズが当選した。嘘偽りない感想を述べただけである。
バッハが出てくるのは、彼にとっても人生晩年期の2009年平均律クラヴィーア曲集第1巻(2009)である。彼は自分の演奏が宗教的なバッハの作品にそぐわないと懸念したのかもしれない。一種の英断があったかもしれない。彼はそのような謙虚なところがある。バッハの演奏に関していえば、先述したリヒテルやグールドの名演奏を十分に意識してのことだったと思える。
なおその10年後の2019年にベートーベンの「晩年ピアノ・ソナタ第30・31・32番」の再録音をしているのは、彼にどのような思いがあったのだろうか。健康不安と演奏技術の衰えを自覚せざるを得ない77歳のポリーニが、ベートーベンの最晩年の作品解釈に何らかの修正を加えておきたかったのだと拝察する次第である。楽譜を通して晩年のベートーベンと死をテーマに対話しているポリーニの姿が目に浮かぶ。ポリーニにとってクラシック音楽の演奏とはそのようなものなのである。僕はそのような姿勢を貫いたポリーニが大好きな所以である。
ところで色々な演奏を凡そ70年間ほど聞いてきた私だが、ことピアノ演奏でポリーニを最絶賛する理由は、謳わせ方もさることながら、次の1点に尽きる。それはポリーニの演奏には、『彫刻』が持つ芸術性を他の誰よりも強く感じることである。平面でなく立体感あふれた重量感が心に響く。同じピアニストでいえば、アシュケナジーの絵画性、アルゲリッチの奔放な感情を放出する魅力も捨てがたいが、クラシック音楽の魅力を彫刻のような立体感を持って訴えてくるのはポリーニだけである。音楽と彫刻の橋渡しをしたピアニストは他に知らない。時に大編成のシンフォニー(交響曲)にも勝る壮大な立体感を、10本の指で創造して奏でることが彼の最大の魅力なのである。敢えて想像を巡らせば、父親が有名な建築家、母親は声楽もこなすピアニストであったことにも思いを巡らしている。16世紀ルネサンス期に活躍したミケランジェロの彫刻に匹敵するピアニストのポリーニである。イタリア人の芸術的遺伝子は脈々と繋がっていることを実感する。
(自分の身体性を伴う感覚(音楽の場合は主に聴覚)で頭に直接インプットされた彼の演奏は、WikiPediaなどを読んで座学でインプットされるものより強烈に脳ミソに刷り込まれて我が身に沁み込んでくる。色々な演奏を聴くときの基準となるのは、ポリーニの彫刻的な演奏である。そもそも読書・座学・受験勉強‥は単に情報処理化されたものを扱っているだけの話である。自分の感覚で直接仕入れた情報とは大違いである)
それにつけてもポリーニの極めて卓越した技術、深遠な音楽性、そして音楽に対する献身的な姿勢は、世界中の音楽愛好家から広く賞賛され続けるだろう。彼の演奏は、洗練された技巧と深い音楽解釈が絶妙に融合したものであり、ショパンは勿論、ベートベンやバッハの演奏は、リスナーをして音楽の奥深い世界へと誘いこんでくれる。クラシック音楽の醍醐味だといえよう。
ポリーニの演奏で一般的に誰もが認める特徴の一つは、先述したが彼のテクニカルの完璧性だろう。正に「時空を超えた完璧の世界である」。彼の明瞭で繊細なタッチは、最も複雑で高度な作品でさえも軽々とこなして聴衆を魅了する。その精緻な演奏技術は、バッハからショパン、ベートーヴェン、そして20世紀の作曲家に至るまで、幅広いレパートリーにおいて際立っているのであるが、その底辺にあるのが、深い感情的な豊かさと内省的な洞察力なのである。ポリーニは、楽譜の背後にある情熱、繊細さ、そして時には悲劇さえを、彼独自の感情的な洞察で解釈し、これらを適度に抑制された表現で聴衆に伝える。そして彼の音楽は、単なる音符の並び以上のものを提供し、楽曲が持つ深い物語性と感情を同時に体験させてくれる。ある意味で彫刻芸術はイタリア人に流れているDNAの力なのだろう。ポリーニの葬儀は、彼の生涯で160回以上の演奏会を開いたオペラの殿堂ミラノスカラ座で営まれたと聞く。ミラノは彼が生まれ育ちそして晩年を過ごした地である。
最後になるがポリーニは音楽性だけではなく、その人柄に対する国民の尊敬も忘れてはならない。彼は自己宣伝を避け、代わりに音楽そのものとその技術的な完璧さへの探求に集中してきたことが明らかである。この謙虚な態度は、彼の演奏のすべての側面に反映されており、彼の音楽をさらに際立たせている。マスメディアや公の場における過度の注目を避けることで、ポリーニは音楽に対する純粋な愛を保ち続けてきた。
また教育者としても、ポリーニは若手音楽家への指導に情熱を注いでおり、彼の豊富な知識と経験を惜しみなく共有している。日本でも公開講座としての演奏会を開いたことが強く印象に残っている。後進の指導においても、彼の音楽に対する深い理解と尊敬は明確に見て取れ、次世代の音楽家たちに大きな影響を与えていると聞く。
マウリツィオ・ポリーニは、私にとって単なるピアニスト以上の存在であった。彼は真の音楽家であり、その演奏、人柄、そして哲学的な音楽解釈を通じて、世界中に無限の美を広めた。
私が「哲学的」という修辞句を敢えて使うのは、「作曲家の心の陰影を平面でなく立体的に捉える」ことを強調するからである。その結果ポリーニの音楽は、聴くもの全てに深い感動を与え、彼の芸術的遺産は、今後も長きにわたって称賛され続けることに間違いない。
M.Pollini様、永い間ご苦労様でした。衷心より感謝申し上げます。
天国では自分に厳しい姿勢から存分に解き放たれて、西洋美術史上のあらゆる分野に大きな影響を与えた芸術家である同じイタリア人のミケランジェロとの芸術談議に花を咲かせて心安らかにお過ごしください。

(WikiPediaのポリーニの項目に掲げられていた写真を拝借させていただきました)