(03).自分探し

人が変化することは、身体の細胞が新しく生まれ変わるプロセスに似ている。例えば、骨の細胞は数か月から数年で新しくなり、赤血球は約120日、皮膚にいたっては1か月、腸粘膜は数日から数週間でそれぞれ更新されると聞く。
この細胞の入れ替わりは年齢によって速度が異なり、若い人は細胞が早く再生するが、年をとるにつれて遅くなり、細胞の新陳代謝による再生が上手くできなかったら癌化しやすい。

この自然な身体的プロセスと同様に、人間自身(人柄・精神的部分)も変わる。益々頑固になったり攻撃的になる人が多そうだが、加齢と伴に益々丸ーるくなりたいものだ。つまり外見や身体的特徴よりも、内面や性格、知識や考え方の変化を指す場合があります。学問や苦しい体験や修行を通じて、知識や考え方が変わることは、古くから言われている。
例えば、論語にある「朝に学んで夕べに死ぬことも良し」という言葉は、学びによって以前の自分はなくなり、新しい自分が生まれるという意味です。学問は知的好奇心を満たす行為であり、自分を成長させる重要な手段となる。

江戸時代の武士たちは学問と武道の両方に励み、知識と行動が一致する「知行合一」の精神を身に付けることで、自分を変えてきた。しかし、現代においては、自分は変わらないと思い込んでいる人も多く、「自分探し」とか聞くが、学びや体験による変化の重要性が見過ごされているように思う。

しかし、実際には、人生では予想もしない変化が訪れ、大切なものが変わることもあります。そのため、予測不可能な偶然や変化を受け入れられるように、心の準備をしておくことが大切です。学問だけでなく、様々な経験を通じても、人は成長し、変わることができます。

結局のところ、人は変化することができ、変化することで成長し、新しい自分を見つけることができます。これは、私たちが日々経験する学びや人生の様々な出来事から得られる教訓です。

しかし、実際には、人生では予想もしない変化が訪れ、大切なものが変わることもあります。そのため、予測不可能な偶然や変化を受け入れられるように、心の準備をしておくことが大切です。学問だけでなく、様々な経験を通じても、人は成長し、変わることができます。

結局のところ、人は変化することができ、変化することで成長し、新しい自分を見つけることができます。これは、私たちが日々経験する学びや人生の様々な出来事から得られる教訓です。

◉ ヒトの細胞が新陳代謝を繰り返して新しい細胞と入れ替わるのと一緒で、人間が変わるということは、それまでの自分は死んでしまって、新しい自分に生まれていると言っていいようだ。
身体に例えれば、骨は数か月から数年かかることもあるが赤血球は120日間、皮膚は1か月、腸粘膜は数日から数週間だと言われている。これらは年齢によっても細胞の入れ替わり速度は変わってくる。若い人の方が再生能力が高く、恒例になるにつれて再生速度も遅くなるのは実証済みである。ところがこれらは身体性の話であって、外から目には見えねど人間性とでも言おうか、その人の徳とでも言おうか、「学問」をすると自分が「違う人」になるものだ。
論語の「朝あしたに道を効かば夕べに死すとも可なり」というように、学問をして(鼻ではなく)きちんと身に付ければ、学問をする前の自分はいなくなって新しい自分がそこに在るのである。学問をする前の自分は死んでしまって、(我が身体の諸細胞の如く)新しい自分になれるのである。
それを繰り返すのが『学問』である。あるいは、「学問=知的好奇心」といってもいいだろう。読書好きな人ともいえる。
(あくまでも、ことのいい悪いは別であるが)江戸時代の武士は、朝に学問をして「知なるもの」を身に付ければ、午後には武道に励んで自分がまたガラッと変わって違う人になれると、強制的にでも教えられたのが江戸時代の藩主に使える武士であろう。所謂「知行合一」の陽明学であろう。いわゆる学問をする以前の自分は死んでも、いまさら何を驚くことがあるだろうか。誰にも100%訪れるのが「ヒトの死」である。『論語』の一節は、そういう反語表現である。学問をするとは、目からウロコが落ちること、自分の物の見方がガラッと変わることなのだろう。
バカの壁を造って確固歴然とした自分があると思い込んでいる現代の人は、この感じがわからない。むしろ変わることはマイナスだと思っている。私は私で、変わらないハズ。だから変わりたくないのだろうが、それでは、知ることはできません。人生は「あーすればこうなる」というものではない。むしろその逆のことが多い。
でも、先に書いたように、人間はいやおうなく変わっていくものである。どう変わるかなんてわからない。変われば、大切なものも違ってきます。だから、人生の何割かは空白にして、偶然を受け入れられるようにしておかないといけません。人生は、脳ミソで考える「ああすれば、こうなる」というわけにはいかない。
実は学問に限らない。自分の体験に学んで自分がガラッと変わることもある。V.フランクルが人生の意義の2番目に挙げた「経験する意味」と言った言葉を思い起こす。例えば「失恋」である。失恋という体験をして初めて気づく(或いは気づかせようとする恋もあろうが)。なんであんな女に死ぬほど一所懸命になったのであろうか、それまでの自分は死んでいなくなったと考えて新しい自分になることだ。再度恋にチャレンジするかどうかは人によって違っても、いつまでも変わらない「自分」が常にあると考えるのは如何なものであろうか。人は変わっていいのである。

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