(08).意識の浸潤

はじめに
私たちが住む都会は、人間の意図(=あーすればこうなるだろうという考え)の基に造られた人工のモノが溢れている。一方、山などの自然に足を踏み入れると石や雑草が沢山ありますが、もしも石ころがゴロゴロ都会に転がっていたら、意味がないものとして誰でも文句を言って片付けることでしょう。無意味なものを徹底的に排除し、意味のあるモノヒトだけ選んで受け入れてきた世界が都市なのです。

人間は城や家を築いては、自分たちでコントロールできる場所とした。そこは人間の意識だけでつくられるため、自然物を置かないという暗黙の約束がありました。だから、木はあるけれど、それは人間が植えたものです。花も草も同じ。人間が植えていないか、もしくは認めていないものは雑草だと言って引っこ抜く。そうやって意識したものだけを配して都会はつくられてきた。

そのような〝意識(=脳の働き)〟でつくった都市社会では。人間が持っている〝(身体性を伴う)感覚〟を遮断し、脳/脳の中で図面を引いてつくったモノやシステムのみを具現化させた世界である。「あーすればこうなる世界」の典型が都市社会である。いまや驚くべきことに世界の半分以上の人が都会に住んでいます。みんな意識がつくり出した都会の中に住みたがるのは、効率的且つ利便性の高いモノに囲まれて物質的には楽に暮らせる。人類は便利な都市生活が出来ること自体が人類の進歩だと誤解している。「意識」が自分の生活をコントロールしていると誤解しているのである。自然を意識がコントロールできると思っているのは大きな勘違いに過ぎない。

実は考えてみれば当たり前のことであるが、意識とは後付けである。つまり、意識的に寝ることはできない。静かに布団に入っていると昼間の身体的疲れも加わって、独りでに寝てしまうでしょう。起きる時も同じです。目覚ましのように外から刺激を加えてもらわないと起きられない。さあ今から起きようと思って覚めているわけではない。意識して起床するわけではない。そもそも人間はもっと生きたいと意識しても死亡率100%の生きもので自分の意思でどうこう出来るものではない。他の動物同様に自然の中の一部の存在に過ぎない。つまり意識は自主性がなく、主体性を持っていない。なのに、起きている間は、意識が主体だと信じ込んでいる。完全に錯覚である。即ちコロナに感染したくなくとも人は感染することがある。一番身近な存在は自分の身体である。自分の身体(=自然)を意識がコントロールなんてできないということを理解することから始まる。

「概念の上位化」で生まれたもの
脳の意識的な部分は、個々の違いを無視する。つまり「同じ化」して上位概念の言葉でまとめて捉える癖というより宿命に置かれている。新しい変化を好まないで「バカの壁」に閉じこもってしまう。より抽象度が高く上位レベルにまとめることで同じ化していく。そして宇宙の万物まで含めて「同じ」を繰り返していくと、最後の最後に出てくるのが、すべてを統合する神様、すなわち一神教である。

一方人間以外の動物はといえば、「微妙な違いを認める能力」に優れている。トランプの神経衰弱をしたら猿が勝つに決まっている。同じ化してこの共通性を追求したことで「ことば」が生まれた。言葉の発明で「a=bの世界」を造りあげたのである。物々交換する基準としての「お金」を発明して経済活動の基準値とした。お金と言葉の出現で人類は大きな進歩を果たしたが、争いも生じたことは周知のとおりである。

りんごも梨も果物、果物も肉も食物‥てな具合である。宇宙も含めて上位概念への「同じ化」を繰り返すことで一神教に辿り着く。反対に「違う」を認める方向の究極にあるのが八百万(やおよろず)の神だといえよう。こちらは神様が無限に存在し、一神教とは真逆である。今や世界の7割が一神教ですが、都市に住みたがるようになった人間が一神教を信仰することはごく自然な流れだと私は思っている。それは都市も一神教も、同じ化を好む〝意識〟がつくったものだからである。

日本はしばらく八百万の神の世界であった。それは我々の先祖たちは、〝意識〟よりも〝感覚〟を使ってものごとを捉えていたからだろう。日本には四季折々に豊かな自然があり、多様性に富んだ環境があったため、言語化されないことや意識化されないものの存在を認めることができた。あらゆるものを受け入れることで、神様も一つの神に収斂していかなかったのだと思われる。一神教が、豊かで多彩な環境下ではなく、砂漠地帯から生じた所以もその辺にあるのではないだろうか。

「意識」から「感覚」へ(人間が失ってはならないもの)
近代になって、あちこちが都市化していったことで、そこで暮らす人々も急激に都会人になってしまったのは当然のことで、都市に住んでいるということは〝意識〟の世界に住んでいるということなのである。この世界に浸りすぎ、あらゆることを意識だけで判断しようとしてしまっているせいで、明らかに意識と感覚のバランスが崩れてくるのも当然のことだろう。所謂意識の感覚世界への浸潤である。

多くの人が、「あーすれば、こーなる」という具合に考えてしまっている。「あーすればこうなる」のぶつかり合いが国家間の戦争、個人間の喧嘩やイジメである。自分の思うように「同じ化」出来なかったら相手を簡単に削除しようとする。そこが現代人の大変傲慢なところである。

ただ傲慢なのは現代人に限らない。「機械論的世界観」が華やかなりし17世紀の天才科学者のガリレイは、自然に対峙して「自然は数学で書かれた書物」と言い放ったという。自然を人間がコントロールできそうな雰囲気を感じる。今も昔も人間は、何でもかんでもすぐに答えを欲しがるが、自然への違和感或いは畏敬の念を持ち続けるってことが大事なのだろう。自然の不思議さに答えは、未来永劫出ないことを受け入れる。だから、おかしいなと思ったら、ずっとおかしいなと思っているしかない。いつか答えが降ってくることもある。博物学的な考え方は、この「あるものは仕方がない」を原点とする。「あってはならない」などと考えてしまうのは人間が〝意識(脳)〟だけで判断することに慣れてしまっているからである。

役に立つか立たないか、お金になるかならないか、あってはならない…と考えるよりも先ずは置かれた環境を受け入れること。環境や相手を変えるより自分が変わる方が楽である。希望が持てるというものである。迫ってくる台風に向かって、来てはならない、あってはならない、と言っても仕方ない。

大事なのは〝意識〟を休ませて〝感覚〟をフル活動させてみること。意味のあるもの、ないものが混在する自然に触れないと、人間どこかが歪んでくる。前頭葉の癖(前例に倣う)にしがみつかないで意識ではない感覚の世界へ行ってみる。言葉では説明できないことがたくさんあることに気付く。頭で考えるのではなく、体で感じなければわからないことがいっぱいある。それを知れば、世界はぐんと広がること請け合いである。自然の中に行ってみれば、人間関係中心の都会生活に慣れた自分自身が世界を狭くしていることに容易に気がつくことができる。