(3).意識の浸潤

はじめに
生きものの中で現生人類の「ホモサピエンス」だけが、相手を殺す兵器を造って戦争を繰り返すのは、高度な頭脳と身勝手な意識を持ったことによるといえそうだ。なぜ身勝手な意識を持って行動するようになったのか?それは都市化が進んで、塾通い等の「読書入力」や「SNS入力」は増えても、自然の中で身体の動きを伴う五感による入力が極めて少なくなってきた 都会人の脳は、「 脳 ⇄ 意識出力」だけの繰り返しを重ねるようになってきたことが原因して人災戦争が増えてきたことに気付いていないのである。極端にいえば、仮想現実(VR)と現実の世界の区別が付かなくなってしまうゲーム感覚脳で事に及んだ思われる犯罪が増え続けている。
前節(2)「感覚入力 ⇄ 脳 ⇄ 意識出力」(=学習サイクル)の関係を踏まえて述べれば、人類が他の生きものと大きく違う発達を遂げた“脳”が、SNS情報だけに反応して、自分で考えることが極めて少なくなったことに根本的な問題がありそうである。つまり脳が(人間の意識が及ばない)自然などから「感覚入力」をすることが無くなったのが現代の都市化社会である。養老が「脳化社会」として危機感を強めている所以である。
自然界に接する機会がなくなった結果、人間の脳は勝手に「あーすればこうなる」という自利的な自分中心的な世界の構築を目指す。その過程で別の「あーすればこうなる」という意識出力と衝突して、武力に訴えるのが “戦争” である。双方の自己中心的な意識出力が話し合いによって止むことを期待して、第二次世界大戦後にUN(国連)を創設したが、ニューヨークのど真ん中に建つUNビル内で議論されるのは、脳 ⇄ 意識出力の世界で、身体性を伴う感覚入力はゼロである。養老孟司はこのような社会を、「脳化社会或いは都市化」と呼ぶ。脳化世界が戦争勃発の最大原因ではないだろうか。
「感覚入力 ⇄ 脳 ⇄ 意識出力」(=学習サイクル) の左半分が見事に欠落している。人間の意識によって作り上げられた現代の都市は、確かに何不自由ない快適な暮らしをもたらしてくれているように感じる。しかしその都市に住む私たちは、人として大切なものを、失いつつあるのだ。それは、人間が自然から乖離して、学習サイクルの左半分の「感覚入力 ⇄ 脳」が欠落しているからである。その具体的な現われとして、相手を殺す兵器を造って戦争を繰り返す行為に繋がると筆者は考える。養老孟司の考え方を紹介しながら、「人間の本来のあるべき姿」に迫ることにする。  そもそも18世紀の産業革命の前世紀の17世紀に偉大な科学者や思想家が、百花繚乱の如くを戦争を繰り返す人間を見ていて、都市に住むようになった人間が、感覚器官を働かせて情報の取り込みをしなくなって、意識の中だけで「あーすればこうなる」と考えるようになったことは否めない。

脳化社会(=都市化)の行き着く先が戦争状態
ヒトの歴史は、『自然の世界』に対する、 『脳の世界』の浸潤の歴史だった。 それをわれわれは進歩と呼んだのである。 その後、「進歩」はあらゆる領域に及び、 地上はあまねく「脳化社会」と化してしまったたように感じられる。 脳化はどこまで進み、世界はどのように変わるのだろうか。
スモール脳の動物は「感覚世界」が優先するのに対し、ビッグ脳の人間は「意識世界」が優先する。それによって生じる意識的社会では、「ああすればこうなる」と計算や理論で予測を実現戦とて戦争を起こす。つまり予測やコントロールができないものは排除して出来上がったのが脳化社会である。
つまり、『脳化社会=都市化社会=あーすればこうなる社会』が戦争を生む。なぜならば、学習サイクルの左半分の「感覚入力 ⇄ 脳」が欠落して「脳 ⇄ 意識出力」を繰り返すと、エゴが衝突して戦争や殺人社会になるのは必至である。
そして思い起こしてほしい。「感覚入力 ⇄ 脳」が欠落して「脳 ⇄ 意識出力」を繰り返しているのが、現代の教育そのものである。私は少子化の根本的原因は、親子が自然から乖離して受験戦争に奔走する社会になってしまった日本の将来を案じる。少子化対策は教育費の無償化で解決できる問題ではない。自然から乖離した日本社会全体の問題である。

ビッグ脳とは
人間の社会には「同じ」つまり「イコール」の概念がある。しかし動物にはイコールがないので等価交換がわからない。「朝三暮四」が通用しない。「A=BならばB=Aである」ということが、感覚を優先する動物には理解できない。 「同じ」という機能を獲得したヒトは、言葉やお金、民主主義を生み出し、世界を「意味」で満たそうとしてきた。それを突き詰めたのが先述した都市社会である。
オフィスの中では風は吹かない、雨も降らない。屋内はエアコンで一定の温度に保たれ、床は平坦で、堅さはどこも同じ。恒常的な環境をつくるため、違いを主張する感覚所与(※3)をできる限り遮断する。山に入れば虫がいたり、石ころが転がっていたりするのは当たり前ですが、都会の生活では邪魔以外の何ものでもない。意味のあるものだけに囲まれていると、いつの間にか意味のないものが許せなくなってきます。それは裏を返せば、すべてのものには意味がなければならないということであり、「意味がわからない」ものは「意味がない」と結論づけて切り捨ててしまう。そこにいまの社会が抱える問題の根本があるようだ。

「意識」がコントロールしているもの
このように、人間は意味のあるものをつくり無意味なものを次から次へと排除してきた。山などの自然に足を踏み入れて発見する石や雑草はまったく意味がない。つまり、無意味なものを徹底的に排除し、意味のあるものだけでつくり上げてきた世界が、都会である。いわば自分たちでコントロールできる場所です。そこは人間の意識だけでつくられるため、自然物を置かないという暗黙の約束がありました。だから、木はあるけれど、それは人間が植えたものです。花も草も同じ。人間が植えていないか、もしくは認めていないものは雑草だと言って引っこ抜く。そうやって意識したものだけを配し、都会はつくられていったのです。人間が持っている〝感覚〟を遮断し、脳の中で図面を引いてつくったものやシステムのみを具現化させた世界です。いまや驚くべきことに世界の半分以上の人が都会に住んでいます。なぜかというと、自然は危険だからみんな意識がつくり出した都会の中に住みたがるんです。意識の世界に住みたがるのは、危険な自然を意識がコントロールできると思っているからですが、大きな勘違いです。みんなは「自分が思ったから、行動している」と考えていますが、実は意識とは後付けです。考えてみれば、当たり前のこと。例えば、意識的に寝ることができますか。静かに布団に入っていると独りでに寝てしまうでしょ。起きる時も同じです。目覚ましのように、外から刺激を加えてもらわないと起きられない。さあ今から起きようと思って覚めているわけではありませんよね。

つまり意識は自主性がなく、主体性を持っていない。なのに、起きている間は、意識が主体だと信じ込んでいる。完全に錯覚ですね。身体を、即ち自然を、意識がコントロールなんてできないということです。半分は自然の世界がないとイケないと私は思う。

「同じ」を繰り返すことで生まれたもの

脳の意識的な部分は、個人間の差をなくして同じように捉えようとする性質を持っています。この共通性を追求したことで「ことば」が生まれました。「同じ」という捉え方ができないと言葉は使えません。

例えば、花という言葉。赤い花も青い花も黄色い花もあるのに、それを「花」という一言でくくるのは人間だけです。動物はそれぞれ違うと思っている。なんか似ているなぁとは思っているかもしれませんが、「同じ」とは見ていません。
「同じ」にするとは、抽象化していくことです。より抽象度が高くなることで1つになる。どんなにたくさんあっても、「同じ」を使っていくと最終的に1つにできるのです。

宇宙の万物まで含めて「同じ」を繰り返していくと、最後の最後に出てくるのが、すべてを統合する神様、すなわち一神教です。「同じ」を繰り返すことで一神教という概念が生まれるのです。それに対し「違う」を認めるのが、八百万(やおよろず)の神ですね。こちらは神様が無限に存在し、一神教とは真逆です。今や世界の7割が一神教ですが、都市に住みたがるようになった人間が一神教を信仰することはごく自然な流れだと私は思っています。それは都市も一神教も、〝意識〟がつくったものだからです。

一方、日本はしばらく八百万の神の世界でした。それは我々の先祖たちは、〝意識〟よりも〝感覚〟を使ってものごとを捉えていたということでしょう。日本には豊かな自然があり、多様性に富んだ環境があったため、言語化されないことや意識化されないものの存在を認めることができた。あらゆるものを受け入れることで、神様も一つの神に収斂していかなかったんだと思います。

「意識」から「感覚」へ
近代になって、あちこちが都市化していったことで、そこで暮らす人々も急激に都会人になってしまいました。都市に住んでいるということは〝意識〟の世界に住んでいるということです。この世界に浸りすぎ、あらゆることを意識だけで判断しようとしてしまっているせいで、明らかに意識と感覚のバランスが崩れてきています。

博物学的な考え方は、この「あるものは仕方がない」からはじまります。「あってはならない」などと考えてしまうのは〝意識〟だけで判断することに慣れてしまっているからです。

役に立つか立たないか、お金になるかならないか、それが効率のいいものの見方だと思ってしまっている。役に立つかなんていうなら、それこそ山に行ってみればいい。役に立たない石ころが嫌ってほど転がっていますよ。それが自然というものです。まずはそれを受け入れること。迫ってくる台風に向かって、来てはならない、あってはならない、と言っても仕方ないでしょう。

日常生活の中に自然を取り入れ〝感覚〟を取り戻すために、私が提唱しているのが「現代の参勤交代」です。都会の人が、例えば数週間でもいいから、交代で自然の中に滞在する。自分の身体を使って野菜や米なんかをつくってみる。それだけでも全然違ってくると思いますよ。面倒だから農薬を撒くって人もいるでしょうし、有機でやるって人もいるでしょう。そんなことはどうでもよくて、大事なのは〝意識〟を休ませて〝感覚〟をフル活動させてみること。意味のあるもの、ないものが混在する自然に触れないと、人間どこかが歪んでくるんです。

田んぼだって役に立たないものがいっぱいありますから。だから草もむしる。でも、どこまでむしればいいのか。都会では、そういう無駄なものがあったら全部排除しちゃう。そうじゃない、意識ではない世界へ行ってみる。言葉では説明できないことがたくさんありますから。頭で考えるのではなく、体で感じなければわからないことがいっぱいあるんです。それを知れば、世界はぐんと広がります。自然の中に行ってみれば、自分自身で世界を狭くしていることに気がつくことができるでしょう。