(4).Big-Headの功罪


人工知能AIの位置づけ

 人間は「同じ」にすることによって、世界をどんどん単純にしています。なぜかといえば、面倒くさいから。番号ひとつあれば、本人はもう要らない。マイナンバーに抵抗があるのは、個人情報の悪用に対する不安など理由はいろいろあるでしょうが、根本は「生身の自分」と「情報としての自分」の社会的な折り合いの問題ではないかと思います。

 5、6年前、銀行に行って手続きをしようとしたら、本人確認の書類提出を求められたことがあるんです。私は運転免許は持っていないし、病院に来たわけじゃないから健康保険証も持っていませんでした。そうしたらその銀行員が「困りましたね」と言う。よく行く地元の銀行ですから、その人も私本人だとわかっているんです。ここにいるのは間違いなく養老孟司なのに、なぜ養老孟司と認識されないのか。そのとき考えたんですよ、「本人」って何だろうと。

 それから数年して答が出ました。本人は、いまや「ノイズ」です。コンピューターに入らない。だから病院に行けば医者は患者を診ずにパソコンの中のカルテしか見ない。銀行も本人は

パソコンやスマートフォンに象徴されるように、脳化社会はますます進行しています。コンピューターは脳そのものですからね。脳の機能全部ではなく、おそらくいちばん新しく脳の中に出来た計算機能を最大限に使って、外へさらに広げたもの。最近ではコンピューターが人間の社会を置き換えると言われていますが、馬鹿げています。脳の特定の機能をコンピューターに置き換えるほうがよっぽどいい。脳味噌なんて世界に70億もあるんですから、いまさら脳をつくるより、脳をバージョンアップしたほうがいいに決まっています。コンピュータに出来ることを人間がする必要はないんですよ。100m走をオートバイと競う人がいますか? 計算するのに特化した、0と1の二進法のアルゴリズムで動く機械と、人間が競う必要はありません。人間がコンピューターと将棋を指すなんて、あんなことはやっちゃいけないんですよ。あほらしい。いずれはコンピューターが勝つに決まっているんですから。それをコンピューターが偉いと思うのは間違いで、それならオートバイは偉いということになる。私たちは時速100㎞で走れませんからね。

 脳と人工知能の最大の違いは、脳は背景に体が付いていること。脳は体の一部なんです。コンピューターに付いているのは人間ですから、人間を外したってコンピュータは何ともない。だから最近はディープラーニングをさらに進めて、コンピュータが自分自身のソフトを改良するようにしようという話も出ています。そうなってくれれば人間は要らないだろうと。

 おかしいと思いませんか? 人間が生きていて、機械という道具を使っているのに、なぜ逆転するのか。銀行が今後10年で数十万人リストラするといっています。みなさん、そのときにどう思うでしょう? コンピューターが進化するとリストラされるような仕事をやらされていたことがおかしいと思わないですか? 人間が生きるということは、そういうもんじゃないでしょう。

「手入れ」という共生の思想

 脳だけ先に行ってしまうと、体が付いていかずに置いてけぼりになる。しかし、意識というのは体の言いなりなんです。朝起きようと思っても目覚ましをかけなきゃ起きられないし、夜寝るときも誠心誠意寝ようと思ったら目が覚めちゃう。気を失っていた人の意識が戻るのは、意識が自分で戻ろうと思ってそうなるわけじゃない。

 意識は、出てくるのも引っ込むのも、自分の意思じゃないんです。眠っている間は意識なんてないのに、出てきた瞬間、自分がいちばん偉いと威張っている。体を動かしているのは自分だと思っているから、出てきた瞬間に運動系の働きがまだ目覚めていないと、いわゆる金縛りの状態が起きて、パニックを起こしたりする。意識は覚めているのに体が動かないものだから、びっくり仰天するわけです。反対に知覚系の働きが目覚めていないと、金縛りの逆になる。つまり、知覚系が眠っているので外からの情報が意識に上らず、夢見ているときの脳の中の状況がそのまま現実になる。それが白昼夢です。

 意識とは秩序活動です。意識は無秩序なことができない。意識的にでたらめなことはできないんです。秩序的な働きというのは、エントロピー増大の法則(※1)に基づき、必ず無秩序、いわばゴミを発生します。だから眠っている間にゴミの処理をする。そうしないと脳の中にはゴミがどんどん溜まってしまいますから。つまり秩序は、同量の無秩序と引き換えでないと手に入らない。文明は秩序そのものですから、自然破壊の本質もそこにあります。

 意識には科学的な定義はありません。エネルギーでもなければ電気でもない。わからないんですよ。そもそも眠っている間は意識がないというだけでも、意識には限界があると考えたほうがいい。現代社会の根本を成す意識とはそういうものなんだと、私たちは知っておくべきでしょう。

 できることはやる、というのは人間の悪い癖です。不要な行為をするんですよ。三陸海岸の巨大な防潮堤がいい例です。できるものだから、やらないといられない。やらなくたっていいじゃん、というその辛抱ができない。生物業界なんて、受精卵ないしはそういうものの扱い方について、しょっちゅう揉めています。中でも最大の問題は、ヒトの遺伝子の導入でしょう。ヨーロッパは法的に禁止、アメリカは規制、日本はアメリカと同じ。規制がまったくないのが中国、インドです。その内、遺伝子導入された人間が中国から出てきますよ。最近では脳と人工知能の接続を目指している人もいますね。体を改造するというのは昔からやっていることですが、あまり賛成できません。生き物は生き物として放っておく。そのほうが安全です。

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 脳化社会がここまで進んだいま、私たちに必要なのは「手入れ」の思想だと思います。もともと人間はそうやって生きてきました。子育てもそうだし、自分自身の体についてもそう。庭だってそうです。人間の体や草木などのように「意識」でつくれないものはすべて「自然」であり、自然と付き合うには「ちょっとだけ」手を入れることが大事なんです。里山は自然のままの状態で存在するのではなく、草を刈り、枝を掃うことによって保たれています。バランスを崩しやすいシステムに、加減を見ながら手を加えることによってシステムを維持し、その中で共生していく。そういう自然との折り合いに対する概念が、日本には昔からあるんです。何もしない荒れ放題の自然より、人間が手入れした自然にこそ豊かな生命が宿るということを、日本人は知っているはずです。

 手入れは、相手を自分の脳を超えた存在であると認め、相手のルールを理解することから始まります。それに対し、相手を自分の脳の中に取り込み、脳のルールでコントロールしようとしてきたのがいまの社会。自然が思い通りになるわけがないし、脳がすべてを理解できるわけがない。そのことに、人はそろそろ気づき始めているんじゃないかと思います。

※この記事は、当社広報誌『INFORIUM』第9号(2018年5月23日発行)に掲載されたものです。