第03回 中学校の同窓会

IMG_1077ブログ「私の履歴書」のコーナーでは、中学校時代のことを沢山書きとめて、当時を思い起こしたい気持ちが強い。それは今日僕が物事を考える際の様式や、価値基準などの「精神構造の大枠」は、例えて言うならば50年以上前の中学時代に基礎工事を終えて、さしてたる大きな改修を加えなくとも、今も立派に保ち続けているように自分には思えるのである。されど、年齢の方は徒らに積み重ねていくものの、現実には中学時代の精神構造に立ち戻って物事に処することは少なくて、日々世事に流されっ放しで暮らしているのが現状である。正義感に燃えながら、相手が誰であろうと正面から自分の考えをぶつけながら前進していった、あの頃の中学生の僕は一体何処へ行ってしまったのであろう。漱石は「草枕」の冒頭で、川の流れを世事に、船頭を己に喩えて、人生航路の舵取りが上手く行かない中年男の心情を見事に表現している。即ち『理性だけで割り切ろうとすれば人と衝突するし、人情に従えばその場の状況に流されて足元をすくわれる』と言うわけである。僕が「草枕」を最初に読んだのは中学生半ばの頃だったが、不惑前の漱石の心理描写を理解するにはあまりに幼すぎた。そして僕が中年に差し掛かった頃である、埃をかぶった文庫本を何気なく読み直して、初めて草枕冒頭のあの文章に唸ったのである。「知と情」の狭間で悩み、結局世間の川の流れに任せて暮らして行かざるを得なかった思いを見事に述べ言い当てた文章であった。名作は歳を重ねて読み返しても、その折々に見合った新たな感動が生涯を通じて得られるものである。僕は60歳を過ぎて新刊小説はまず読まない。否、読みたくとも億劫さが手伝って読めなくなったというのが正解である。それは最近のxx文学賞受賞とやらの小説の類がつまらないということも無いではないが、昔読んだ本に忘れ物をしているような気持ちが強いからである。音楽に対しても、名曲全集に収められている曲より、自分が好むクラシック音楽の源流辺りの曲を繰り返して何度も聴く方が、気持ちが安らいでいい。
さて我が人生を振りかえれば、高校に入学した途端に、次は大学受験、その次には就職、結婚、出世、お金、名誉…等々、枚挙にいとまがないほど現実的な諸々のことが、目の前に現れたり頭の中を次々と占めるようになった。ふと気づいた時には「人生如何に生きるべきか?ここは人情に任せて生きたいものだが…」などと立ち止まって考えなおす余裕がすっかりなくなっていった。つまり、人生の青春の季節真只中の中学時代までは、悩みから程遠い一種の純粋培養的環境状態に置かれていたものの、純粋に自分の思う人生を歩んでいたものが、高校生活からは自ずと現実の競争社会に巻き込まれていかざるを得なくなったのである。そして悲しいかな、その後の人生の行動ベクトルたるや、生きて行くための形而下的価値観(精神的なものでなく物質的、具象的なものに基づく価値観)にどんどん傾いていった。目に見える表層的な部分で物事を判断しながら暮らして行く人生は、決断も早くてその時は簡単でよさそうだが、一方で「漠たる不安」が何時も付き纏って、「心の平安」が中々得られないことを度々経験した。人生回り道にこそ思わぬ喜びに出会えるものである。本当に大切なものは、目に見えないという名言が心に響く。
そのような人生航路において、長崎大学付属の小・中学校の9年間で学び感じたことは、想像以上に自分の人格形成上大きな血肉となって今日に影響を与えているように思われる。即ち、9年間の授業から吸収した知識は勿論であるが、当時の読書、友人、家庭環境…などからも如何にその後の人生に大きな影響を受けていたのかが後になって分かるものである。小中学校の学習は、未だ形而下的な現実社会の価値観に害されることなく真っ白い心のノートに書きこまれるから、強烈な印象を伴って脳に吸収される。特に自分が興味のある分野の知識は、乾いた砂漠に雨水が吸収されるように、一度習ったり読んだりしたことを、先ずは知識として容易に記憶することが出来た。そして丸暗記に頼った受験向けの知識が、一度事が終わったら右から左に直ぐ頭から離れて忘れ去ってしまうのと違って、自分が興味を持って覚えた知識は心に焼き付いて、後々までも滅多に忘れるものではない。僕は義務教育として小・中学校で美術や音楽など芸術に関わることが必須科目として組み込まれているのは、潤いのある人格形成のために大変いいことだと思う。それなのに、現代のように最終目標を有名大学合格に定めて塾や予備校に通い、受験科目にない学科には見向きもしないで18歳まで走り続けるのは、人間としての成長(人格形成)に百害あって一利もない。だから、(厳しく言わせてもらえば)受験勉強で苦労して就職に有利な有名大学に入って社会人になろうとて、その後の行く末が知れているのではないだろうか。先ずは小中学で受ける学校の教育に真面目に取り組んでほしい。そして幅広い人格形成のための間口を広げてから、自分の判断で選択した分野を大学で専門的に学ぶべきである。そのような分野こそ自分の仕事にしたくなるだろうし、あるいは本当に死ぬほど好きな分野は趣味として二番目に残しておけば、退職できるのを楽しみに本業に邁進できるというものではなかろうか。
今日僕が音楽を聴いて生きる喜びを味わえているのは、間違いなく中学校の音楽教室の大きなスピーカーから流れてきたベートーヴェンの「運命」を聴いた時の衝撃が原点となっている。この世にこんな音楽があるのかと驚いた。爾来、人生の折々で「運命」からどれほど大きなエネルギーを貰ったか言葉に尽くせるものではない。音楽からは生きるエネルギーばかりでない、精神的癒しもたくさんもらった。この文章を書いている今も、無性にショパンを聴きたくなったりする。勿論、受験勉強で得られた知識が、人生あらゆる場面でいろいろと役に立つことを多々経験した。しかしそれは、心の平安や幸福感に通じる精神的なもではなかった。知識だけが必要なら、人間は電子辞書、パソコン/コンピュータには敵わない。知識を知恵にする能力は人間にしか備わっていない。
その後人生の岐路と思しき場面に直面した時に、「中学校時代の僕なら、一体どのように感じ、考えただろう」と自問することが多くなった。どうも物事の本質を直感的に見極める感覚は、中学時代に一番研ぎ澄まされていたように思える。なにしろ世間の穢れを知らないままでいられた当時の感性は、対象物を見極める際にも純粋且つストレートなものであったはずである。
人生の基礎工事に例えて、少し私見を述べすぎた。僕の中学時代の履歴書に戻ろう。

中学校の同窓会「附十四会(フトシ会)」について
さて僕は長崎大学付属中学校を昭和39年(1964年)春に卒業した。第14回卒業生なので同窓会を、付属の“附”に卒業回の“十四”を付けて「附十四会」(=フトシ会)と称している。同窓会の本部は母校がある故郷長崎に在って、卒業後かれこれ50年以上が経つ。そして僕らが40歳、それはサラリーマンならば定年までの折り返し点をそろそろ迎える年代であろうか、同期卒業生の一人であるK君が附十四会の関東支部設立を僕に提案してくれたのである。彼は卒業生の住所を長崎の同窓会本部や友人達に聞いてまとめ上げたら、同窓生全体が250名程度の小さい中学校であったが、その3割程度の約80名弱が関東地方に住んでいるという大発見をしたというのである。
当時の僕は、「サラリーマンの形而下的価値観」に拉致された被害者の如き存在であった。つまり自分を育ててくれた郷里の中学校に対する感謝の気持ちを決して無くしているわけではなかったが、ついつい現実的な生活に流されて長崎の同窓会本部にも音信不通を貫いて、いわば行方不明であることの確信犯でもあった。K君は長崎で商売を営む実兄から僕の消息を知ったそうである。そして自ら作成した80名余の関東在住者名簿を携えて、僕が務めていた新宿のオフィスを訪ねてきてくれたのである。名簿を開くとそこには懐かしい名前がずらっと並んでいて、25年前の顔と思い出が絵巻のように広がってきた。「会いたか!」思わず長崎弁が飛び出した。企業戦士さながらにサラリーマン人生を只々ひた走っていた僕にとって、K君の提案は天からの賜物のように感じられて本当に嬉しく思った。所謂、彼が当時行方不明者の僕の救出を敢行してくれて同窓会開催まで提案してくれたのである。今度は僕も行方不明者を救出する番だと思った。
進学した高校が違ったので、中学卒業以来25年(四半世紀)ぶりの40歳時の再会となったK君だが、お互いが認めるまでには無言で10秒ほどを要した。周囲も気にしない大きな声の長崎弁で話しかけてきてくれたK君の様子が今も脳裏に焼き付いている。もしK君との再会が無かったら、25年以上続く「附十四会関東支部」が今日存在していないはずである。そして相変わらず中学時代の友人たちと一定の距離を置いている僕でしかなかったかもしれない。実はK君とお互いに認め合うのに10秒を要した理由がある。二人とも年齢の割に若禿げが異常に進行していたからである。お互いに、まだ自分の方が増しだと思いたかったのであろう、驚きと安堵の両方の気持ちが混じりあって、暫くは無言で見詰め合ったのである。そして最初の同窓会の席上で、僕達が自他ともに認める同窓会若禿げベスト2であることが正式に判明して皆で大笑いした。(お互い傷つけあうことなく順位の決着はつけないでいるが)。また主婦のMさんが、男性に比べれば消極的だった女性群に対して、大いなる勧誘を図ってくれたお蔭で、1回目から多くの女性の参加が得られた。女性の40歳は、子育てほか家事の忙しさがピークに差し掛かる頃であったろう。つまるところ、僕はK君とMさんに黙ってついていくだけの、特別何もしない発起人の1人となって今日まで続いている。
今日までの27年間で3回欠席した。ロンドン駐在していたためであるが、中学校時代の英語担当の所謂“女先生”が出席する東京の同窓会場に国際電話を入れた。当時の電話代は高かったが30分も女先生を独占して当時のままでお話が出来たのには感激した。電話を切る前に何度も僕の英語で通用するのか心配して「英語は大丈夫かと?」と尋ねられたのが忘れられない。何時まで経っても中学校の先生との関係は変わらない。心配のかけっ放しで頭が上がらない。

S君のこと
中学卒業後25年、40歳という人生の区切りもあったのだろうか、第1回「附十四会関東支部同窓会」には約40名(関東在住総勢80名の約半数)が出席してくれた。関東地区で初めての同窓会と言うことで関心を集めたのかもしれないし、働き盛りの中年者には東京で仕事をする機会が多かったのであろう。40名の中には中学時代そのままの粗忽な強者がいた。相撲部のエースS君である。その日を余程心待ちにしていたのであろうが、開催1週間前に会場のホテルに行って、「間違いなく今日が俺たちの同窓会の日だ」とフロントで言い張ったそうである。1週間後の本番の日には、同窓会発起に貢献した敢闘賞として皆から大喝采を受けた。相撲部だったS君は、小さい頃から筋肉質のがっちりした身体付きをしていたが、厳めしい外見に反して心根はとても優しい思いやりのある男であった。それは澄んだドングリ目に表れていた。家も近所で小・中学校9年間を通じて路面電車や市バスで一緒に通った仲間だったから、狭い車内での思い出話だけでも尽きることがない。
そしてこれは本当に残念なことであるが、S君はその後同窓会の常連出席者として今日を迎えられなかった。今となっては50台前半の早世が衷心惜しまれてならない。それでもS君は長崎での卒業25年後に東京の地で中学時代の旧友に再会したことを、この世の思い出としてくれたのではないだろうか。「神々に愛されるものほど早く死ぬ」とは古代ギリシャの喜劇作家メナンドロスの言葉であるが、S君の人生は正にそのような人生で、今天国で神々にさぞや愛されて幸せに暮らしていることだろう。この世に憚る自分が恨めしい。
僕らも同窓会仲間の訃報を聞く回数が、少しずつ増えてくる年齢になってきた。旧友との対話は出来るうちに心置きなく話しておきたい気持ちである。そして将来1名でも出席してくれる友人が居たら附十四会を継続したい。ただ「生き残りの二人同窓会」まで僕が生き残れるという自信は全くない。一人でも多くの中学時代の友達に会っておきたい身持ちである。

帰省同窓会も楽し
今年(2015年4月)「附十四会関東支部」は20名の出席であった。幹事の1人H君が永年の仕事柄、何時でも名門会場を用意してくれるのは有難い限りである。ご両親の事情や長崎の方が老後を暮らしやすいことがあるのかもしれない。東京をたたんで帰省してしまった友人も多い。だから関東支部同窓会の出席者が減って固定化する傾向にあるが、それでも今年は2名が長崎から上京してきてくれた。関東に暮らす僕たちには嬉しいものである。僕は感謝の思いを込めて連中とは、とことん付き合うことにしている。昼食に始まる同窓会も、年甲斐も無く最終電車に乗り遅れる時間までカラオケで盛り上がったりする。(極)一部の友人とはいえ、世の中に12時間以上も同じ顔を見て繰り広げる同窓会は聞いたことがない。よほど家に帰りたくないのかと誤解されることがある。(確かに真実は皆が僕に付き合ってくれているのだろう。実に付き合いがいい御婆ちゃんもいたりして、何時も心から皆に感謝している)。
同窓会の翌朝は毎年二日酔いと決まっているが、それを後悔する気持ちは全くない。逆に元気で逢えた友人達から毎年新しいエネルギーを貰っていることが嬉しい。一般的には60歳を越しての中学同窓会には、懐かしんで出席したい気持ちと、隔世のあまり敬遠したい気持ちとが相半ばしてあるのではないだろうか。それでも大人世界への橋渡し的存在としての附属中学校にお世話になったという気持ちと、縁あってそこで出会った友人達と再会して50年余のタイムスリップを愉しみたい気持ちが皆にあるのだろう。
そう言えば関東支部から大挙して長崎に帰省したことが過去2度ある。60歳の還暦を迎えた年(2008年)と、63歳時の長崎くんち同窓会(2011年)である。最初の恩師も招いての「還暦同窓会」では、最初名前と顔がどうしても結びつかない友人が数名いた。当時の中学生達が見事な歳の重ね方を成し遂げているのを目の当たりにして、僕には友人たちが輝いて見えた。還暦の女性は皆艶やかで、男性には貫禄があった。ただこれは僕を筆頭に全員が自認している事だと思うが、附十四会ならぬ「太し会」だったことは、記念写真が物言わぬ証拠となっている。
「長崎くんち同窓会」があった2011年は、個人的にはサラリーマン現役引退の年であり、同時に東日本大震災の年として生涯忘れがたい1年となった。当地でも入手困難な「長崎くんち」の桟敷席を確保して、帰省する関東支部の連中に楽しんでもらおうという我々には大変有難い企画に基づいた「くんち同窓会」であった。詰まる所長崎在住組は、夫婦連れもいた関東在住の僕達に桟敷席を優先して融通してくれたのである。卒業後約半世紀たった同窓生からの故郷おもてなしには大感激だった。次回は70歳時に「古希同窓会」の開催企画がもう始まっている。今から楽しみにしているが、お互いが元気でいることが何よりの必要条件なので、己の事は傍に置いて、皆に健康第一を呼びかけている次第である。
兄姉が長崎に住んでおり、亡くなった両親の墓も長崎に在ることもあって、僕の場合は退職後の最近は2年に1回程度のペースで長崎帰省を果たしている。その時に受けた同窓会有志からの歓待の様子や、長崎で感じたことを、冒頭で述べたように今後も書き留めておきたい。
(最後になったが、冒頭の写真は今年2015年春の附十四会の様子である。会場は毎年幹事のH君がT會館グループの1室を用意立てしてくれる。最前列に2名の長崎組と美女たちが並んでくれた。皆が笑っていい顔しているが、笑ったら不思議と中学当時の顔つきになるものである。皆が笑って中学校生活が送れたということであろう。同窓会で笑っている人は、それからの人生も幸せに送れると聞いた。中学時代と同じ笑顔に免じて、『太し会 and 禿げ増す会』の写真の無断掲載をお許しいただきたい)。

第03回 中学校の同窓会」に5件のコメントがあります

    1. いい文章です。僕も病弱であったため、共感するところが多々。今の僕を成しているのはこの頃かもしれません。

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    1. お元気ですか?
      心臓は大丈夫ですか?
      僕は6月21日に千葉大学でカテーテル手術を再度受けます。
      ウイルス(自然)と人間の関係を新しくブログアップしました。
      宜しかったら読んでください。
      また昼食一緒しませんか?

      いいね: 1人

hbutatsu への返信 コメントをキャンセル

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